苗字のQ&A


Q  私の苗字はいつ決まったのでしょうか?

A   私たちの苗字が法的に確定したのは明治5年(1872)に作製された壬申(じんしん)戸籍においてです。武家や公家の場合それ以前から苗字を使っていましたし、公的には使用が禁じられていた庶民も最近の研究では私的には苗字を使っていた事例が報告されています。それらの苗字の遡源はあるものは江戸、あるいは室町、遠くは鎌倉、平安にまでさかのぼるものもありますが、明治5年以前の苗字は現在のように法的な縛りがかけられ、勝手に変更することができない苗字とは、性格が異なる存在でした。


Q  知り合いに佐藤さんが3人います。この人たちって親戚なんですか?

A  佐藤さんや鈴木さんは日本でも一、二を争う大姓ですが、その実態については検証されていない部分が多々あります。現在、書店で売られている苗字本を見ると、佐藤さんは平安後期の京都にいた藤原公清が左衛門尉(さえもんのじょう。御所の建春門にいた衛兵の将校)に任じられ、左衛門尉の「左」と藤原の「藤」を組み合わせて左藤と称し、名字は人が使うものなので人偏を加えて佐藤に改めたとされています。人偏を加えた動機は私の恩師である丹羽基二博士の仮説ですが、公清が史上初めて佐藤という名字を名乗ったことは、まず間違いありません。これが1説。下野国佐野(栃木県佐野市)の藤原氏が佐野+藤と名乗ったというのが2説、佐渡(新潟県佐渡島)の藤原氏が佐渡+藤で、佐藤と名乗ったというのが3説です。ほかにも説はありますが、この3説のうち、1説は中世の系図集である『尊卑分脈』にみえることから、一応史料的な裏付けはなされています。2説は仮説に過ぎません。3説も言い伝えも基づく仮説でしかありません。このように佐藤さんの発生由来についてはいまだに本当の意味での実証的な研究がなされておらず、なぜ日本を代表するような大姓に成長したのかも謎のままなのです。そのため将来、苗字の研究が科学的に進歩したとき、現在書店に並んでいる苗字本の解説は、ことごとく書き直される可能性を含んでいます。以上を踏まえたうえでご質問に答えると、現状の研究のレベルでは3人の佐藤さんのルーツがどのような関係性にあるのかを検証することは、ほぼ困難といわざるをえないでしょう。


Q  多い苗字と少ない苗字があるのはなぜですか?

A  最初に考えられることは、苗字の発生時期です。歴史人口学から考えても、発生の時期が古い苗字ほど、子孫を増やし、数を増やす上では有利でした。ゆえに現在多い苗字は発生時期が古く、少ない苗字は発生時期が新しいのではないかという推測が成り立ちます。次に苗字のしばりという問題があります。徳川家康を出した松平一族は中世以降大いに数を増やしましたが、そのうち徳川という苗字を名乗ることが許されたのは将軍家と御三家、御三卿に限られました。このように特別な由緒の苗字には「しばり」がかけられ、一族といえども勝手には名乗れなかったのです。そういう「しばり」がかけられた苗字は現在でも数が少ないものです。第三に、アイヌ民族や琉球の人々、外国から帰化した人の苗字も少ない傾向にあります。


Q  苗字と名字の違いはなんですか?

A  名字は平安末期に地名から生まれましたが、平安から鎌倉、室町時代まではファミリーネームの呼称として名字が用いられました。江戸時代以降は苗字が使われるようになります。苗字の苗には、血を同じくする者という意味があり、概念としては名字よりも広い意味を持っています。現在の多様なルーツを持つファミリーネームを表記するには苗字が最適であるとして丹羽基二博士は苗字を好んで使用しました。そのため弟子の私も苗字という表記を用いています。しかし、文部科学省や新聞、TVなどのマスコミは名字、法務省は氏を使用しています。名字、苗字、氏、姓は歴史的用語としては明確な違いがありますが、現在ではどれもファミリーネームを表記する言葉として広く使われていますので、どれを使うかは個人の自由ということになります。


Q  私は中島で読みは「なかじま」ですが、知人の同姓は「なかしま」と読みます。

A  島は単独では決して「じま」とは読みませんが、前に文字が付くと「じま」と濁ることがあります。このような二つの語が結合して一語をつくるとき、後ろの語の語頭の清音が濁音に変わることを国語学では「連濁(れんだく)」と言います。「やまざき」と「やまさき」、「たかだ」と「たかた」、「たにぐち」と「たにくち」などは、すべて連濁による変化です。

 ちなみに連濁は被修飾語頭の清音に生じる現象ですが、すべての被修飾語の清音に発生するわけではありません。「うえした」「のみくい」のような並列の関係では連濁しません。外来語も原則として連濁はせず、「つかみとる」のような用言+用言も連濁しません。被修飾語の2拍目に濁音があると、これもあまり連濁はしない傾向にあります。

 苗字の連濁は東日本に多い現象と解説されることがありますが、一概にそうでなく、連濁するか、しないかについてはいろいろな要素が関係しているのです。

 

Q  萩原と書いて「はぎわら」さんと「はぎはら」さんがいます?。なぜ読みが違う?

A たしかに萩原さんには「はぎはら」と読む人と「はぎわら」と読む人がいます。これは平安時代以降に起きたハ行転呼によるものです。紀貫之の『土佐日記』(935年頃成立)には「うるわし」という表現に使われていますが、これは本来は「うるはし」だったもので、当時すでに「は」が「わ」と発音されていたことが分かります。苗字や地名の「は」音も歴史的に「わ」と発音されることが多く、「はぎはら」さんは「はぎわら」さんに変化し、地名の小田原なども「おだはら」ではなく「おだわら」と言われるようになりました。ただし、すべての「は」音が転呼するわけではなく、石原(いしはら)さんや栗原(くりはら)さんのように「は」音のままのものもあれば、萩原さんのように「はぎはら」と「はぎわら」、吉原さんのように「よしわら」と「よしはら」など、古い形(転呼前)と新しい形(転呼後)がどちらも残っている場合もあります。

 それにしても、苗字は日本語で構成されているのに、従来の苗字事典といわれるものには連濁のこともハ行転呼のこともきちんと解説されていません。これはその本を書いた研究者が苗字を国語学や音韻の観点からは考究していない証拠と言えるでしょう。いつまでも出自や分布のような一面的な思考のみで苗字を論じていては、研究の発展は望めません。 


Q 高橋といいます。私の高は俗にはしご高と言われる髙です。なぜ髙なのでしょう?

A  髙は現在、高の異体字(意味が同じで書き方が異なる文字)とされていますが、もともとは高を草書で手書きしたときは、髙の形で書くほうが一般的でした。ところが1716年に中国で編纂された漢字辞典の『康熙字典 』が高を正字としたため、草書体の髙はその異体字とされてしまったのです。とはいえ明治時代に戸籍を書いた官吏は江戸時代の草書体(くずし字)に慣れ親しんだ人たちです。高を書くときに、ついつい書きなれた髙を使ってしまったのです。よく高と髙は本家と分家で使い分けたなどといわれますが、実は手書きの形をそのまま活字化してしまったら髙になったというのが事実です。山崎さんの「﨑」、吉田さんの「𠮷」も書体によって書き方が異なり、それが活字化された形なのです。


Q  私は斎藤ですが、知人に斉藤さんがいます。斎と斉の違いはなぜ生まれたのですか?

A 斎藤さんは藤原叙用(ふじわらののぶもち)が900年代中期に斎宮寮(伊勢神宮に奉仕する斎王の身の回りのお世話をする役所)の頭(かみ。長官)に任じられたことを記念して、斎宮の藤原=斎藤と名乗ったことに始まります。この斎には「心身を清めて神様に奉仕する」という意味があり、斎戒沐浴のような熟語もあります。一方、斉藤さんの斉にはそのような意味はなく、「ひとしく」「均一」というような意味で、一斉(いっせい)、斉唱(せいしょう)のような使われ方をします。斎と斉は本来、まったく意味が違う漢字なのです。では、斉藤さんはどうして生まれたのでしょう。これを説明するとき、斎を省略したとか、誤字から始まったなどと根拠のないことを言う人がいますが、私はそうではないと思っています。日本人は昔から 縁起の良い文字を好んだ国民で、とくに苗字には縁起の良い文字に変える佳字化が目立ちます。斉藤さんは斎の中の「小」を嫌い、あえて意味の違う斉を使い始めた人々だったのではないでしょうか。



Coffee Break Vol.2  西郷隆盛と天才ジョッキー 



 2018年のNHK大河ドラマは『西郷どん』ですが、西郷隆盛が中央競馬の天才ジョッキー武豊さんと遠縁なのはご存知ですか。

 西郷隆盛は薩摩藩士岩山八郎太の二女イトと結婚して、慶応2年(1866)に寅太郎が生まれました。西郷にはすでに奄美大島の愛子(愛加那)との間に菊次郎が生まれていましたが、嫡子は寅太郎となり、菊次郎は庶兄という扱いになりました。

 この寅太郎は父が明治10年(1877)の西南戦争で戦死すると、鹿児島でひっそりと暮らしていましたが、成長すると陸軍軍人を志し、ドイツの陸軍士官学校に留学。帰国すると陸軍少尉に任官し、侯爵を授けられました。

 この寅太郎に嫁いだのが同じく薩摩藩出身の実業家園田実徳の長女ノブです。園田実徳は北海道の函館に住み、北海道炭礦鉄道の創立に加わって理事に就任し、函館市街に現在でも走っている路面電車を整備した道内屈指の財界人でした。その実徳の長女として生まれ、何不自由のない暮らしをしていたノブは西郷家に嫁いだあとも浪費を続け、西郷家は経済的に行き詰まってしまったといわれています。しかしノブは西郷家の跡継ぎである隆輝を生んでいます。

 実徳には彦七という弟がいました。彦七は薩摩藩の武家の養子に入り、武彦七と改名し、フランス馬術を学んで黎明期の函館競馬で活躍します。ハンサムだった彦七は函館の女性たちにとっては憧れの男性で、スター的存在でした。

 この彦七のひ孫にあたるのが、天才ジョッキーの武豊さんです。