先祖を誇るとはどういうことか

「自分の先祖には、どんな人がいたのだろうか」
先祖を調べる人にとって、この問いは行動をかきたてる大きな原動力となる。祖父母や曾祖父母の名前を調べ、古い戸籍や墓碑、過去帳、古文書、写真、手紙を探す。先祖が暮らした土地を訪ねる。ときには何百年も前の人物まで系譜をさかのぼる。
なぜ人は、自分が直接会ったこともない人々に、これほど強い関心を持つのだろうか。
ニューヨーク市立大学ジョン・ジェイ・カレッジの分子生物学教授であるネイサン・H・レンツ博士は、2018年1月29日にPsychology Todayに掲載した「The Meaning and Meaninglessness of Genealogy(系図学の意味と無意味さ)」で、この素朴な疑問を正面から取り上げている。レンツ博士は決して先祖調査を否定しているわけではない。むしろ、自分自身も部屋に先祖の写真を飾り、家族の過去を調べることを楽しんでいると語る。その上で、「先祖に対する私たちの感情には、少し不思議なところがある」という。その不思議さが最もよく表れるのが、先祖に対する「誇り」と「恥」である。
先祖が英雄だったと分かれば、私たちは誇らしく感じる。著名な政治家、学者、芸術家、武将などとの血縁が判明すれば、「自分の家系にはこんな人物がいた」と誰かに話したくなる。
たとえば曾祖母が女性参政権運動に参加した人物だったとしても、その功績を成し遂げたのは曾祖母本人である。現在の子孫がその活動に参加したわけではない。博士は、「その英雄的な行為を誇るとすれば、それは先祖のものであって、子孫自身のものではない」という。逆に、先祖が犯罪を犯していたとしても、その犯罪について子孫が罪悪感を持つ理由はない。先祖の行為に対する道徳的責任は、原則としてその行為を行った本人に帰属するからだ。
ところが、私たちの感情は、それほど簡単には割り切れない。
博士自身が、そのことを自分の経験から語っている。博士の祖母は、米国の国務長官ウィリアム・ジェニングス・ブライアン(1860~1925)と親族関係にあると信じていた。博士は以前、その可能性を誇らしく人に話していたという。ところが、後になって進化論をめぐる1925年のスコープス裁判で、ブライアンが公立学校で進化論を教えることを禁じた法律(反進化論法)を擁護したことを知って、博士の気持ちは変化した。以前は誇らしく語っていたブライアンを、今ではほとんど自慢しなくなったというのだ。その心境の変化について博士自身が、「自分の先祖に対する反応に、一貫性がないことに戸惑った」と語る。
「偉い人の子孫である」という事実は、それだけで自分の自己評価を少し高めるように感じられる。しかし、その人物の別の側面を知り、それが自分の考えや期待してものと相いれないと知った途端、同じ先祖が今度は望ましくないものに感じられてしまうのだ。この心理の変化は重要である。つまり、自分自身も先祖も本質的には何も変わっていないにもかかわらず、「先祖の評価」を自分のアイデンティティーの一部として取り込んでいるため、先祖についての自己の評価がマイナスに変化すると、その先祖に対する自分の感じ方まで変わってしまうのだ。
ほかの例として、博士はテレビ番組「Genealogy Roadshow」のエピソードを紹介している。ある女性芸能人が、自分の家族は西部開拓時代の無法者ジェシー・ジェームズの子孫ではないかという家族伝承を確認するため、専門家に調査を依頼した。調査結果を発表する前に、専門家はジェームズの南北戦争期から戦後にかけての暴力や殺人、奴隷制をめぐる南軍側への支持など、決して誇ることのできない歴史を紹介した。しかし、その後、彼女はジェームズの子孫であると知らされると、大変に喜び、歓声を上げたのだ。ここから分かることは先祖が善人であったか、悪人であったかを判断するのはあくまでも子孫個々の価値観によるものであり、同じ先祖であっても、子孫によっては誇りに思うこともあれば、恥に感じることもあるという我々の奇妙な心理である。
もう一つ、博士自身の経験が紹介されている。
博士はアフリカ系アメリカ人の友人と家族史について話した際、自分には南北戦争中に北軍側で戦った先祖がいること、奴隷制に反対する立場にあった先祖がいたことを話した。一方、友人の家族には、白人の奴隷所有者とその女性奴隷との関係から生まれたという家族伝承があった。
友人は、「それでは、あなたは奴隷制度廃止論者の子孫で、私は奴隷所有者の子孫なのか」と問い返した。
もちろん、二人とも南北戦争を生きた本人ではない。どちらも自分自身がその歴史的行為を行ったわけではない。それでも、先祖の物語が現在の二人の立場に、あたかも道徳的な意味を与えるかのような状況が生まれたのだ。
ここにも、我々が先祖を「自分のもの」として考えることの危うさがある。
自分の先祖が英雄だったという話は、本人にとっては誇らしい。しかし、その英雄が別の人々にとっては加害者だった可能性もある。自分が誇りに感じている歴史が、他者にとっては苦痛の記憶かもしれないことを忘れてはならない。
このことは、先祖を他人に語る際にも重要である。
「うちの先祖は武士だった」
「有名な人物の子孫である」
「何百年も続く旧家である」
これらは、子孫にとっては単なる事実の説明であるかもしれないが、聞き手にとっても同じとは限らない。事実を述べただけでも、相手には「先祖の自慢をしている」と受け取られる可能性がある。
先祖調査は、調べる本人にとっては大きな意味を持つ。自分の祖父母がどこで暮らしていたのか、どのような仕事をしていたのか、なぜ故郷を離れたのか。その発見は、本人にとってかけがえのないものになる。
しかし、他人がその物語に同じ価値を感じるとは限らない。
レンツ博士の記事は、だから先祖調査をやめるべきだと言っているのではない。博士自身も、自分の祖先の写真を部屋に飾り、その人々の物語を語ることを楽しんでいる。先祖調査には、人間の過去を知るという確かな魅力があるとも言っている。
そのうえで博士が問いかけているのは、その楽しみ方である。
先祖の功績を、自分の功績にしてはいないか。
先祖の罪を、自分の罪だと思ってはいないか。
先祖を、現在の人間の価値を判断する基準にしてはいないか。
家系図を調べる真の目的は、「自分は特別な血筋である」ことを証明することではない。博士が最終的に価値を見いだしたのは、遠い昔の著名人よりも、身近な先祖の物語であった。何でもない日常を生き、家族を養い、仕事をし、移住し、病気や災害を乗り越えた人々。その「普通の人々」の人生も、現在の私たちにつながる大切な歴史である。先祖調査が面白いのは、誰が誰の子孫なのかという血統そのものより、そこにどのような人生があったのかを発見できるからである。
そして、自分にとって大切な家族の歴史だからこそ、他人に語るときには慎重でありたい。家系は、まず自分と親族の間で共有する大切な物語として扱う。その上で、他者に話す場合には、相手がその話を聞きたいと思っているか、どのように受け取る可能性があるかをよく考える必要がある。
「私の先祖は偉かったか」ではなく、
「この人は、どのような時代を、どのように生きたのか」
発見した先祖の物語をその問いに変えたとき、家系図は血筋の価値を証明する道具ではなく、一人の人間の人生を理解するための貴重な歴史資料になるはずである。
