先祖を調べると死の恐怖が和らぐ

 40代の独身女性であるAさんは、ある日、実家の整理中にセピア色に変色した古い写真を見つけた。そこには、見覚えのない着物姿の男女が写っていた。母に尋ねると、「その人たちは、お父さん方の曾祖父母だよ」と教えられた。しかし、父は昨年他界しており、それ以上のことは分からなかった。

 写真の曾祖父母に興味を持ったAさんは、広域交付を利用して古い戸籍を取り寄せ、父方の叔父や叔母に電話をして話を聞き、古い記録を調べ始めた。すると、明治、大正、昭和を生きた先祖たちの名前や住所、職業が少しずつ分かってきた。そして調査が進むにつれ、Aさんはあることを強く意識するようになった。

「私は、突然この世界に現れた人間ではないんだ」

 当たり前のことなのだが、日ごろは意識すらしていないことだった。自分の前には何世代もの先祖がおり、その人生の連鎖の先に現在の自分がいるという事実に気づいたことで、Aさんの心には変化が起こり始めた。その変化が何なのかを考えてみたいと思う。

 

 心理学に恐怖管理理論(Terror Management Theory:TMT)というものがある。TMTは、1980年代にジェフ・グリーンバーグ、シェルドン・ソロモン、トム・ピジチンスキーらによって提唱された社会心理学の理論であり、その理論的背景には、文化人類学者アーネスト・ベッカーの「人間は自分が死ぬことを知っている存在である」という考えがある。

 人間には生き延びようとする強い本能がある。一方で、「自分はいつか必ず死ぬ」という事実を理解する高度な自己意識も持っている。この二つが衝突すると、強い存在論的不安、つまり「自分の存在がいつか消えてしまう」という根本的な恐怖が生じる。

 TMTでは、人間はこの恐怖をそのまま意識し続けるのではなく、心理的な「緩衝材」をつくると考える。その中心となるのが、「文化的世界観」と「自尊心」である。

 文化的世界観とは、「この世界はこういう意味を持っている」という人生の枠組みである。宗教、道徳、社会的価値観、家族観などがこれに含まれる。自尊心とは、その世界観の中で「自分は価値のある存在である」と感じることである。

 つまり、人間は「自分は意味のある世界に属しており、その世界の中で価値のある存在だ」と感じることによって、死への恐怖を和らげようとするのだ。


 その「文化的世界観」のなかでとくに 重要なのが、象徴的不死性(symbolic immortality)という考え方である。肉体は死によって消滅する。しかし、自分が受け継いだ文化、家族の物語、価値観、仕事、そして次世代へ伝えたものは、その後も残っていく可能性がある。

 先祖を調べることは、この感覚を明確にする効果があるのだ。

 ここで、Aさんの家系図に戻ろう。

 Aさんが最初に家系図を見たとき、そこにいたのは自分一人だった。しかし、何世代もさかのぼると、そこには多くの先祖がいることが分かった。

 家系図によって自分の存在を「今この瞬間の一人の人間」として見るのではなく、「何世代にもわたる生命の流れの中にいる一人」として見ることができるようになったのである。これによってAさんは、自分の死を「すべての終わり」ではなく、「長い物語の一つの区切り」として理解できるように感じ始めた。これこそが象徴的不死性である。

 また、先祖を調べていると、農業をしていた人、商売をしていた人、職人だった人、会社員だった人など、ごく普通の人たちがほとんどである。しかし、どんな先祖であっても、その人たちが生きてこなければ、現在の自分は存在しない。戦争、災害、貧困、病気など、さまざまな困難の中で生活し、家族をつくり、次の世代へ命をつないできた先祖たち。そのことを知ると、「自分にも長い歴史がある」という感覚が自然と心にわいてくる。

 さらに、先祖の人生を知ることは自尊心にも作用する。いま述べたように先祖が偉人である必要はまったくない。厳しい時代を生き、家族をつくり、次の世代へ命をつないだという事実そのものが、自分も長い歴史の中に存在しているという感覚をもたらす。それこそが自己という存在の自尊心の土台となるのだ。


 Aさんにとって、ふとした思い付きから調べて作った家系図は、単なる先祖の名前の一覧ではなくなった。それは、自分の存在を時間の中に位置づけるアイデンティティの地図になったのである。

 40代になると、老い、親の世代の変化、自分の将来などを現実的に意識する機会も増える。そんなときに、先祖を知ることは、タイミング的にもよい時期だといえる。もちろん、TMTは「家系図をつくれば死への不安が完全に消える」と主張しているわけでは決してない。また、先祖研究による心理的効果についても、状況や個人差を考慮する必要がある。しかし、TMTの視点に立てば、先祖とのつながりが心の安定に結びつく理由を理解することができる。


 先祖を調べることを後ろ向きな態度だ、過去を振り返って何になるという人がいるが、先祖を探求するという行為は、決してそのようなマイナス思考ではない。単なる懐古趣味でもない。それは、現在を生きる自分を深く理解することにつながる活動なのだ。また、死への恐怖を和らげる可能性もある。祖先効果のように、目に見えて学力を引き上げる効果も期待できる。若者のアイデンティティの確立にも役立つ。レジリエンスを高めることも実証されている。さらに、なによりも調べられた物語は、金銭的な価値では到底測れない次世代に渡す最高の贈り物となるであろう。