歴史の話 旧会津藩士の復籍運動

2019年04月07日


 会津藩士のうち、明治になって士族にはなれず、平民籍に編入された者たちのことをご存じだろうか。

 会津藩は落城降伏後、懲罰的転封で旧領28万石(守護職加増3万石を含む)を取り上げられ、代わりに斗南3万石を与えられた。しかし斗南の地は不毛の地で実収は約7,380石に過ぎなかった。

 会津藩士の数は家族も含めると2万人に及び、これを全員連れて行くとこは到底できない。もしも全員移住すれば、共倒れで餓死者が続発する恐れがあった。そこで藩主の松平容大(かたはる。容保の長男)は「移住ヲセスシテ凍餓ヲ免ルヘキ見込有之者ハ、其見込ニ従テ糊口ヲ計ルベキ」と藩士たちを諭し、また全員が移住しては祖先の墳墓を守る者がいなくなるため、どうか留まって祭祀を続けて欲しいとも語った。この言葉に従って斗南移住を断念した者が約1,300戸(約2,000人)ほどいた。彼らは、会津で農商工になるもの、会津を離れて他所へ移り住む者などさまざまであった。

 彼らの斗南に連れて行かない決断をしたとき、彼らも容大も心配したのが、彼らの族籍であった。新政府からは帰農した者は平民に編入すると通達があったからである。そのため容大は彼らを名義上は斗南藩士とし、三年に限って他所へ出稼ぎに出でいるという寄留(本籍地を動かさずに転居する事)扱いとした。しかし、明治4(1871)年に廃藩置県が行われ、族籍の管理が青森県庁に引き継がれると、県庁は移住の実態さえない残留組を全員、士族とはみなさず平民籍に編入した。

 平民籍に入るということは、秩禄処分の対象にもならず、旧藩時代の家禄に対する補填も一切受けることができなかった。しかし、平民となった旧会津藩士にとっては、経済的な問題もさることながら名誉をはく奪されたという精神的なダメージのほうが大きかっただろう。

 彼らは明治16(1883)年10月、旧藩主の容大にも相談したうえで、「旧藩士族復籍ノ義ニ付願」という嘆願書を作り、容大の副書を添えて福島県令三島通庸(『いだてん』に出ている三島弥彦の父。旧薩摩藩士)に復籍を願い出た。その文中では「戊辰ノ歳誤テ朝憲ニ触レ、尓後(いご)深ク悔悟謹慎仕居候」と書いて朝敵となったことを素直に認め、深く反省している態度を示した。この文章を書く時にも悔しさがこみあげて来ただろう。しかし請願の成否は薩長の官吏の判断に委ねられているため、恭順の意を強くアピールする必要がどうしても必要であった。

 これを県庁は受理したものの、彼らの復籍を認めるつもりは当初から弱く、福島県と斗南藩があった青森県、さらに中央政府の間のやりとりも嫌がらせのように実にゆっくりとしたもので、結果が出るまでに2年5か月もかかった。その挙句に内務大臣山県有朋の名で出された答えは「不裁可」、願いは却下するというものだった。願い出た旧藩士の落胆は大きなものだった。

 ここで、興味深いことがある。それは残留した1,300戸のうち、復籍の嘆願をした者も706名だったということである。実は会津廃藩の直後、北海道の余市へ渡った旧藩士たちも同様の復籍を願い出たが、このときも全員ではなく一部だった。この現象は明治10~20年代、すでに士族という族籍は前近代的なものだと考えていた旧藩士が少なからずいたことの証左だと思うが、そのことは秩禄処分のさいにも出た士族無用論と相通じるものと思われ、興味深いことである。

 ちなみに余市の旧藩士の願いは、北海道開拓の功績が認められて明治26(1893)年に聞き届けられ、士族に復籍することができた。