家系図作成に役立つ話 戸籍の番屋敷・番戸・番邸

2018年12月08日


 現在、役所から取り寄せられる最古の戸籍は明治19年(1886)式戸籍である。これを見たとき、本籍地の欄に〇〇村〇〇番屋敷と書いてあることが多い。それを見て「うちの先祖は裕福だったと聞いているが、やっぱり屋敷に住んでいたのか」と喜ばれる方がいるが、それは残念ながら早合点である。この屋敷というのは何も立派な家を言っているのではなく、ある敷地のなかに立っている家であれば、掘立小屋でも屋敷と書かれたのだ。

 そもそも明治5年(1872)に近代最初の戸籍である壬申(じんしん)戸籍が編製されたとき、まだ全国の土地には地番号(〇番地)が付けられていなかった。地番号が無い状態で村の家を区別するにはどうしたらよいかということになり、政府は戸籍作成を担当する戸長(江戸時代の庄屋・名主出身者が多い)に対して、明治4年太政官布告170号戸籍法第七則にのっとって編綴することを命じた。そこには「区内ノ順序ヲ明ニスルハ番号ヲ用ユへヘシ、故ニ毎区ニ官私ノ差別ナク臣民一般番号ヲ定メ其住所ヲ記スニ何番屋敷ト記シ編製ノ順序モ其番号ヲ以テ定ルヲ要ス」と規定されていた。これに従って戸長は、村の家々の前に「第〇区〇〇村〇〇番屋敷」という杭を打って歩いた。宿場町のようなところで、家が道路沿いに続いているときには、杭にかわって軒下の柱に番札を打ち付けた。この番号が、あなたの戸籍に見える〇〇番屋敷である。戸籍法では〇〇番屋敷と書くようにあるが、実際には〇〇番戸や〇〇番邸と記載された地域もあった。意味はどれも同じである。


 次に、この家番号はどのような基準で振られていったのかという問題だが、これについては記録が少ない。だが、埼玉県などの例では県庁に近い家から1番、2番と付けられていったことが分かっている。昔、村で上手といえば、高い所というよりも、京都に近い方のことを言った。これと同じ発想である。また、村の鎮守の神社を1番、戸長の家を1番としてその隣から2番、3番と付けて行ったというケースもあったようだ。だとすれば、小さい番号のほうが村の主要な建築物、繁華街に近いという推測も成り立つ。

 〇〇番屋敷という表記は明治19年式戸籍以降、番地に変更されていったが、かなり長く使われた地域もあれば、〇〇番屋敷をそのまま横滑りさせて〇〇番地に変更した場合もあった。