夏目漱石と岩内町の戸籍

2018年12月14日

 

 岩内町の郷土館に行くと、面白いことに文豪夏目漱石の戸籍簿が展示されてある。東京生まれの漱石は、明治25年(1892)4月5日、分家して後志国岩内郡吹上町17番地 浅岡仁三郎方に本籍地を移動している。

 浅岡仁三郎というのは三井物産に関係のある商人である。漱石とは面識があったかどうか分からない。それどころか漱石はこのあと22年間も岩内町に本籍地を置き続けるわけだが、岩内を訪れたという気配もない。

 なぜ漱石が後志国平民となったのかといえば、当時の徴兵令と関係があると指摘されている。徴兵令は明治6年(1873)に施行されたが、開拓が優先された北海道では、すでに人口が多かった函館などの道南を除いて、徴兵が免役されたのである。明治8年(1875)から常備兵力として道内各地に屯田兵が入植したことも免役の要因だった。しかし、明治27年(1894)の日清戦争後、開拓も軌道に乗ったということで、まず明治29年(1896)から渡島・後志・胆振・石狩で徴兵が開始され、明治31年(1898)からは全道で本州と同じく徴兵が開始された。

 この間、本州では明治6年(1873)の徴兵令で満20歳の男子に徴兵が義務付けられたが、身長5尺1寸(約153cm)未満者、不具廃疾者、官吏、医科生徒、海陸軍生徒、官公立学校生徒、外国留学者、一家の主人たる者、嗣子(跡継ぎ)、承祖の孫(祖父の家督を継ぐ予定の孫)、独子独孫、養子、父兄病弱のため家を治める者、「徒」以上の罪科者、徴兵在役中の兄弟がいる場合は徴兵が免役された。また、代人料270円を納めたものも免役された。しかし、明治11年(1878)2月18日の陸軍省上申によると、「本年徴兵人員不足ヲ具申ス」とあって、免役者を除いた「徴兵連名簿」に記載されている人数の少なさにあきれている。これはいまだ政府を信じていなかった国民がいろいろな手段を用いて徴兵忌避をしていた結果であった。

 まず忌避者がもっともよく利用したのが戸主は免役になるという規定である。二男、三男でも一家の戸主になれば忌避できるということで、子供のうちに戸籍上だけ分家して別家の戸主にする方法がとられたのである。政府もこれを看過してはいなかった。対抗策として明治11年の第20号布告で「未丁年(満20歳未満)」の者の分家を禁じて、分家戸主で免役になる道を閉ざした。すると人々は、すでに絶えた親類の家を再興する絶家再興という方法を発見し、さらに徴兵対象の期間だけ戸籍上だけ女戸主のもとに入夫(入り婿)して逃れることもした。これらの痕跡は当時の戸籍を見ると、あちこちに残っている。徴兵を巡る政府と国民の戦いはいたちごっこの感があったが、業を煮やした政府は明治16年(1883)の改正で免役を廃疾と不具のみに限り、代人料は廃止、そのほかの免疫理由は猶予制としたが、これでも効果が弱いということで、明治22年(1889)の改正で事実上、猶予制も廃止した。

 これにより漱石のようなとりあえずは心身に異常のない五男坊が免役を合法的に得る唯一の道は、分家して北海道に本籍地を移動することだった。漱石が縁もゆかりもない岩内に本籍地を移した理由はほかには考えづらい。明治の除籍を見る時には、分家、養子、入夫、絶家再興が行われた年齢に注意が必要である。その動機が免役であった可能性があるからである。また、北海道移住の動機の一つに免役があったことも忘れてはならない。

 現在、岩内の漱石の本籍地には、立派な御影石の「文豪夏目漱石在籍地」の石碑が建っている。