武鑑の史料的価値とその貴重性


 武鑑は、江戸時代の武家社会を研究するうえで欠かせない基礎史料である。本稿では、武鑑の内容と刊行の実態を確認したうえで、それが歴史資料として有益かつ貴重である理由を、先行研究と公開資料に拠りながら論じたい。

 国文学研究資料館の藤實久美子氏の解説によれば、武鑑は大名と幕府役人の名鑑として編まれた実用書である。大名家については、当主の紋所・官職名・家督相続の年月日・江戸城内での席次・系図・江戸屋敷の所在・参勤交代の時期・行列の道具などを載せ、あわせて幕府役人の記事も収める。刊行したのは民間の書肆であった。代表的な版元は江戸の書物問屋である須原屋茂兵衛と出雲寺で、両家は宝暦9年(1759)から百年以上にわたり出版を競い合った。須原屋は途切れない継続刊行と素早い記事の改訂を重視し、幕府御用達町人であった出雲寺は記事の詳しさに力を注いだとされる。


歴史史料としての有益性

 第一の有益性は、情報の網羅性と経時性にある。武鑑はほぼ毎年改訂されたため、同じ大名家や同じ役職について、ほぼ一年刻みの連続したデータが得られる。この特質を活かした試みが、人文学オープンデータ共同利用センター(CODH)の「武鑑全集」である。同センターは、国文学研究資料館と協働して公開する日本古典籍データセットに含まれる381点の武鑑を対象とした。まず寛政武鑑(1789)で一時点の横断的な分析を行い、次に354点を用いて、版の違いを画像比較で可視化する「差読」の手法により、藩ごとの長期的な経時データを作成している。これは、武鑑が定量的・通時的分析に耐える体系的な情報源であることを示している。 このような研究に用いることができる全国的な藩士名簿は武鑑しか存在しない。

 第二の有益性は、社会史的な情報源としての性格である。水の文化センターの取材で藤實氏が述べているところでは、武鑑は現代の紳士名鑑に相当する書物で、江戸時代を通じて売れ続けた。武家同士には路上で格上の者に道を譲る作法があり、その判断に武鑑の情報が必要とされた。武鑑は、身分秩序を運用するための実用的な知識として流通していたのである。したがって武鑑からは、個々の人事情報にとどまらず、近世社会がどのように秩序を認識し、共有していたかを読み取ることができる。

 第三の有益性は、出版史・情報史の史料となる点である。藤實氏の著書『武鑑出版と近世社会』(東洋書林、1999年)や『江戸の武家名鑑—武鑑と出版競争—』(吉川弘文館、2008年)は、武鑑を手がかりに、人事情報が商品として出版され流通していく仕組みを明らかにした。

 ただし、民間出版物である以上、武鑑の記載には時差が生じうる。たとえば文化10年(1813)の須原屋版武鑑は、同年8月に没した二本松藩主丹羽長祥を依然として藩主として掲げ、家督相続は翌年の版で反映された。一方、文化9年(1812)の久留米藩主の交代は同年の版に間に合っている。このように記載の精度には多少の揺れがある。


貴重性—集成・翻刻とデジタル公開

 武鑑は版種がきわめて多く、所蔵も各地に分散している。そのため、年次を追って体系的に揃えることは容易ではなかった。この困難を補ってきたのが翻刻・集成事業である。深井雅海・藤實久美子編『江戸幕府役職武鑑編年集成』全36巻(東洋書林、1996〜2000年)と、同じ両氏の共編による『江戸幕府大名武鑑編年集成』全18巻(東洋書林)は、その代表的な成果である。

 デジタル公開も進んでおり、国立国会図書館デジタルコレクションに加えて、CODHの「武鑑全集」ではIIIF対応のビューアで画像を閲覧でき、差読プラットフォームを使って複数の武鑑の差分を検証できる。現在、多くの武鑑は現存本のデジタル化及び翻刻によりネット上で見ることができる。 


近代への継承

 武鑑の意義は、近世のみに限らない。国立公文書館の目録は、同館所蔵の官員録・職員録について、初期のものは江戸時代の武鑑にならって各官庁ごとに作られた官員録・職員録が製作され、明治19年(1886)末以降は全官庁を網羅する職員録に変化したと説明している。

 版元の連続性も確認できる。服部之総の随筆「武鑑譜」は、武鑑の版元として知られた須原屋茂兵衛や出雲寺万治郎が、明治期の『改正官員録』に販売書林として名を連ねていたことを伝えている。武鑑は、近代官僚制における名簿文化の源流として位置づけられるのである。 


 以上のように、武鑑は、網羅的かつ経時的な人事データ、近世社会の秩序意識、出版と情報流通の実態という三つの層を同時に伝える稀有な歴史史料である。さらに、近代の官員録・職員録へと受け継がれた点でも、近世と近代を架橋する価値をもつ。武鑑は、その有益性と貴重性の双方において、今後も日本史研究、とくに武家研究の重要な基本史料であり続けるであろう。これは先行研究によりすでに歴史学界の定説となっている。

参考文献
藤實久美子『武鑑出版と近世社会』東洋書林、1999年
藤實久美子『江戸の武家名鑑—武鑑と出版競争—』吉川弘文館、2008年
深井雅海・藤實久美子編『江戸幕府役職武鑑編年集成』全36巻、東洋書林、1996〜2000年
藤實久美子「須原屋茂兵衛版『寛政武鑑』」国文学研究資料館ウェブサイト
「近世出版事業の隆盛と和紙需要」『水の文化』41号、ミツカン水の文化センター
人文学オープンデータ共同利用センター「武鑑全集」
国立公文書館デジタルアーカイブ「第五類 官員録・職員録」
 「職員録・明治元年七月・東京官員録全改」など千点以上を全文公開している。

服部之総「武鑑譜」(青空文庫所収)


Web上で公開されている主な武鑑

延宝年間武鑑 国文学研究資料館データベース 

早稲田大学 古典籍総合データベース 嘉永武鑑など29点の全文が公開されている

国立公文書館デジタルアーカイブ 

 明治二年改正の須原屋茂兵衛刊本『官許列藩武鑑』など江戸時代から明治初期の多くの武鑑の全文が公開されている。

TOKYOアーカイブ(東京都立図書館デジタルアーカイブ) 大量の武鑑全文が公開されている 

安政二年武鑑 台東区立図書館デジタルアーカイブ

橋本博編『大武鑑 改訂増補』大武鑑刊行会、1940年 名著刊行会、1965年版もあり

渡辺一郎『徳川幕府大名旗本役職武鑑』 柏書房、1967年

『編年江戸武鑑 』柏書房、1981年~ 文化武鑑 文政武鑑