系図研究者たち


浅羽成儀とその子昌儀(1656ー1728)

 父の成儀は幕府の書物奉行で、後南朝の歴史を記述した『桜雲記』(国文学研究資料館で閲覧可能)の著者といわれています。成儀が常陸国水戸藩主の徳川光圀から系図の問い合わせを受けた縁で、息子の伝四郎(甚五兵衛)昌儀は延宝8年(1680)水戸の彰考館に入り、『大日本史』の編さんに参加しました。享保13年(1728)死去しています。享年は73。『近代諸士伝略』『御役人帳』などの著作を残しました。


丸山可澄 明暦3年(1657)ー享保16年(1731)

 丸山可澄は国学者、神道学者で、水戸藩士・田代五衛門乗久の二男にうまれ、後に母の旧姓丸山氏を継ぎました。18歳から徳川光圀に仕え、彰考館で文庫管理を務めること57年間。天和3年(1683)年からは書物の管理出納を任されました。

 『大日本史』の史料探訪のため日本中を歩き回り、光圀の命令で編集した『花押藪』(1690年刊行。国立国会図書館のデジタルコレクションで閲覧可能)は1500人弱にのぼる歴史人物の花押を位階と年代によって分類し、各略伝を付した精確な総合図鑑です。

 また、1692年には『諸家系図纂』(国文学研究資料館で一部をデジタル公開。静岡県立図書館デジタルライブラリーにも異本と思われる『諸家系圖 纂』があります)をまとめました。その凡例で丸山は「譜牒明らかならざれば、事実殊(こと)に晦(くら)し。故に広購遠捜多く諸家の秘本を得、輯(あつめ)て一部となし、姓を以て氏を統(す)べ、氏を以て称を分ち、名つけて諸家系図纂と云ふ」と述べ、本書は『大日本史』編集の際に集められた系図資料を編さんしたものです。内容は源氏各流、桓武平氏、藤原氏、橘氏、紀氏、清原氏、中原氏、菅原氏その他諸氏の順に、公、武諸家の系図を収め、本姓未詳、社家、仏門は各々一類としています。同じ家の系図でも別本は重複して収められており、各系図には出典が示されています。

 活字化されている『続群書類従』(国立国会図書館デジタルライフラリーで閲覧可能)や『系図綜覧 』(国立国会図書館デジタルライフラリーで閲覧可能) 所収の系図には、本書から採録したものが多くみられます。写本は慶応義塾大学図書館などに所蔵されています。


松下重長 ー享保3年(1718)

 松下は3000石の旗本です。先祖は豊臣秀吉が藤吉郎といっていた時代に仕えていた今川家臣松下之綱。刑部と名乗り、閑翠軒と号し、妻は3000石の旗本・池田政済(まさなり。1641ー97)の娘(同族池田政因の養女として嫁ぐ)です。

 著書に『改選諸家系譜』(静岡県立図書館デジタルライブラリーで閲覧可能)前編32巻、後編200巻、続編238編があります。この系図本は後に藤田子家が「参州松平家譜」などを参考にして増補し、享保5年(1720)に刊行されました。現在は国立国会図書館や慶応義塾大学図書館などに所蔵されています。


田畑吉正と小野一郎

 田畑吉正は通称を喜右衛門といい、『市中取締類集』に次のような記事が見えます。

「喜右衛門義は幼年の節より系譜の義をあい好み、儒学も相応に出来致し候なり。文政六年(1823)中同人編集の書籍、学問所へ留め置き候よしにて、松平伊豆守殿御差図を以って、銀十枚頂戴仕り候儀もこれ有るよし。いったい喜右衛門儀、困窮ものに付き、諸家よりあい頼まれ系譜調べ遣わし、謝礼を受け、右にて暮らし方致しまかりあり候よし。同人倅小野一郎義は父と違い学問手跡共出来申さず。芸名菊川幸吉と申し、猿若町羽左衛門芝居笛吹に出居り候処、右職業もはかばかしくこれ無く、当時はあい止め候よし。そのうえ喜右衛門儀、永々眼病あいわずらい、とても小野一郎に書籍あい譲り候しかもせん無しと存じ候なり。病中追々売り払い、喜右衛門儀は天保四年(1833)七月十二日に病死致し候よし。しかる処、同人病死を存ぜぬ者より、系譜等の義あい頼み来り候節は、小野一郎儀、喜右衛門売残し置き候諸家系譜、その外少々の書ものを引書に致し、調べ候えども、手跡も出来前申さず候間、小普請組室賀壱岐守支配宮崎弓太郎父隠居祖山、ならびに御先手浅野中務少輔用人の倅名は知らず、右の者共にあい頼みしたためてもらい、小野一郎受取謝礼の内より、一枚に付き七、八文づつあい払い候よし。この節は頼み来たり候ものも数無し。その困窮にあい暮れまかりあるよしに御座候。」と記述されています。この文は江戸時代の系図作成者の実態を記録したものとして大変に興味深い内容です。

 父の喜右衛門が編さんして幕府の学問所に献上した『断家譜』30巻は慶長年間から文化年間までの約200年間に断絶した大名と旗本約880家の系譜で、信頼できる内容といわれ、現在は続群書類従刊行会から活字化されて出版されています。喜右衛門がこれらの系図をどのように集めたかについては謎が残っています。


栗原信充(のぶみつ) 寛政6年(1794)ー明治3年(1870)

 江戸後期の故実家です。幼名は陽太郎。通称は孫之丞。号は柳庵。甲斐源氏であることから晩年は武田姓を名乗りました。江戸幕府の奥御右筆を務めた父和恒の関係で、父の同僚屋代弘賢(幕府が1812年に編さんした『寛政重修諸家譜』の編さん者の一人)と弘賢の知己平田篤胤から国学を、柴野栗山から儒学を学びました。幼少より弘賢の不忍(しのばず)文庫の膨大な蔵書一万冊以上の閲覧を許され、成人後は弘賢が幕命により編纂していた『古今要覧』の調査に加わるなど広く知識を得る環境に恵まれました。

 全国を巡って資料を訪ね、諸家と交わる調査によって実見によって文物を理解する学を旨としました。のち弘賢の病死により『古今要覧』の製作は中止。それまでの蓄積は自著という形で世に出しました。特に力を注いだ武具、馬具類に関する著作『甲冑図式』『刀剣図式』『弓箭図式』『武器袖鏡』『兵家紀聞』『装剣備考』などは幕末武士の教養書として重用されています。

 一方で系譜にも関心が深く、諸家の多くの系図を収集し、自ら執筆したものもありました。その遺稿は長男信晁(のぶあき)、その子信和(1851ー1918)に受けつがれましたが、そのころ栗原家は居所を転々としていたこともあり、散失なく保存するという配慮から、明治7年頃中島一三(信充門人で島津久光公侍臣)を通じて久光公に送呈し、永く鹿児島城の倉庫に保管できるよう措置がとられました。ところが、この配慮がかえって仇になり、明治10年に西南の役の兵火にかかり、二の丸の倉庫において焼滅してしまい、栗原家には遺著の一つも残っていないと信和が『国学者伝記集成』(国立国会図書館デジタルコレクション で閲覧可能)の中で語っています。信充の書籍類は大櫃(びつ)ひとかつぎ分あったといわれ、この滅失は極めて惜しまれる次第です。

 しかし一部は弟子である鈴木真年が編さんした『百家系図稿』などに収録されています。


鈴木真年(まとし) 天保2年(1831)ー明治27年(1894)

 真年は学者として生計を立てていたのではなく、紀州藩士だった時代に国学を平田鉄胤(篤胤の婿養子)、文久元年(1861)からは系譜学を栗原信充に学び、個人で系譜収集・研究をしていました。真年はその一生の研究の五大目標の第一に「系図学ヲ大成スルコト」を挙げ、さらに続いて「地誌ノ体系ヲ確立スルコト」「正史ノ体系ヲ制定スルコト」も挙げて、紀州藩士時代から明治の弾正台・宮内省・司法省・文部省・陸軍省など転々とした勤務の傍ら、歴史・国文の研究に従事し、膨大な『鈴木叢書』や多くの系図史料を編著述しました。晩年は東京帝国大学で『大日本編年史』の編纂にも4年間従事しています。明治27年(1894)に64歳で亡くなりました。

 真年の編纂、収集した『百家系図』『百家系図稿』などは岩崎男爵家が設立した静嘉堂文庫に所蔵され、東京大学史料編纂所にも『諸氏家牒 』(オンラインで閲覧可能)など、真年が執筆した系図がいくつか所蔵されています。国立国会図書館デジタルコレクションでは、『華族諸家伝』『新田族譜』『苗字盡略解』などが閲覧できます。

 真年の著書を引用して編さんされたのが『古代氏族系譜集成』(宝賀寿男編著、1986年刊行、全3冊 私家版)であり、その『古代氏族系譜集成』を全面的に用いて執筆されたのが『系図研究の基礎知識』(近藤安太郎著)です。


中田憲信 天保6年(1835)ー明治43年(1910)

 真年と平田鉄胤門下で同門だったのが中田憲信です。真年と明治初期に弾正台で同勤し、真年がその職場を離れた後も、司法省・裁判所に引き続き勤務して甲府地裁所長となり、その一生を法曹界に捧げた人物です。中田の詳細な履歴書と経歴書は「休職判事正五位勲五等中田憲信」(国立公文書館)で閲覧できます。 恩給まで質に入れて国家・教育に尽力した熱誠の人ともいわれています。

 中田は南朝の後村上天皇の18代目の子孫と自称し、『皇胤志』『南方遺胤』『各家系図』などの著作を残し、系譜学では真年のよき同好の士でした。

 真年の著作とされている『諸系譜』(国立国会図書館デジタルコレクションで閲覧可能)は中田もその編さんに協力し、二人が当時、司法省に勤務していたことから、司法関係者の家系図が多数収録されていること、中田の転勤先であった徳島県下10郡のうち2郡を除き、郡ごとに諸家、寺社に伝存された系図・古文書・棟札・碑文・その他史料など、地域的に収集した資料が収録され、歴史的史料としても貴重です。この書は真年の没後にまとめられたので、実質的には中田の著作でもありした。
 なお中田の系図も真年と同じく『古代氏族系譜集成』に多く採録されています。


 ところで、中田を大審院判事とした記事が散見されます。経歴書をみると中田は甲府地方裁判所長を退官後、休職判事となっていますから、大審院判事ではないわけですが、『伝記』(昭和15年1月号)に次のような文が掲載されています。

「予が系譜学の師中田翁名は憲信、もと播州明石藩士なり。明治の初司法官となり、各裁判所に転勤して、終に大審院判事に迄陞りぬ。」(「中田憲信と系譜学」より)

「中田翁曽つて大審院部長たりし時、老朽判事淘汰の沙汰あり。翁は判事中最も高齢なりければ、院長南部甕雄翁を召して『君は老朽の筆頭なれば、第一番に辞表を提出してくれ給へ』といふ。翁忽ち赫と怒り『我を指して老朽とは何事ぞ、年こそ取つたれ精神は決して衰へず。年齢は老かも知れねど未だ朽に至らず。苟くも一院に長たる閣下が、裁判官吏の判決を審理する法官の部長に対し、老朽の筆頭と呼ぶには夫れ相当の理由なかる可らず。若し其の理由を明かに示すこと能はずんば、須らく失言を取消さるべし。然らずんば閣下に一刀を参らせん、之にて切腹召さるべし、若し切ること能はずば、閣下こそ老朽の筆頭なれ、即時に辞表を提出なされよ、如何々々』と机を叩いて怒鳴りければ、南部院長も大に閉口し、ソコソコに室を出で去りぬ。かくて翁は頑として辞表を出さず。」(「中田憲信の剛情」より)

 どちらも筆者は中田から系譜学を学んだ国文学者の増田于信(作曲家本居長世の実父)です。中田が南部甕男(文中では甕雄とありますがこれは誤り。1896〜1906まで大審院長)に切腹を迫る逸話は増田の創作とは思われず、増田が中田本人から直接聞いた話のように思えます。

 だとすれば、中田は増田のような親しい人物には大審院の部長だったと話していたのでしょうか。この中田=大審院判事説はこれまで出所が曖昧でしたが、この増田の文を読む限り、どうも中田自らがそう語っていたふしがあるように思えてきます。

 この問題については後考を俟ちたいと思います。


飯田忠彦 寛政10年(1799)ー万延元年(1860)

 江戸後期の有栖川宮家の家臣で、史学者です。周防国(山口県)徳山城下に生まれ、本姓は里見氏。16歳のとき『大日本史』を読んで発憤し、独力で続史の編纂を企て、後小松天皇から仁孝天皇に至る歴代の天皇の伝記と臣下の列伝からなる史書『野史』(全291巻・1852年刊行。国立国会図書館デジタルコレクションで閲覧可能)と770家の系図を考証して収録する『系図纂要』103冊を著しました。

 安政の大獄(1859)のさいは福井藩の橋本左内に通じていた飯泉喜内と文通していたため有罪となり、押し込めになりました。そして大老井伊直弼が暗殺されると、伏見奉行所に連行 され、これに憤慨して自殺しています。尊王の精神と学究が結合した努力の人物でした。

 『系図纂要』は幽閉中に編さんされたものといわれ、中世の基本系図である『尊卑分脈』(国立国会図書館デジタルコレクションで閲覧可能 )以降の諸家の系図を書き継いだもので、活字化されています。


太田 亮(あきら) 明治17年(1884)ー昭和31年(1956)

 明治17年(1884)に奈良県で生まれます。立命館大学、神宮皇學館(現・皇學館大学)を卒業。山梨県立女学校教諭、内務省嘱託を経て、この間、大正6年(1917)に『日本古代氏族制度』を刊行し、その研究の延長として大正9年(1920)に『姓氏家系辞書』を編さん。「不惑の年に達すれども恩給制限に達せず、一身上の不安極まれり」と清貧に甘んじながらも研究に没頭し、昭和11年(1936)には前著を大幅に加筆した『姓氏家系大辞典』(国立国会図書館デジタルコレクションで閲覧可能 )を刊行。本書は全三巻の構成で、約5万種類の苗字について、その起源・分布・本支の関係を詳細に解説しており、現在に至るまで系譜学の基礎文献として欠かせません。実に明治33年(1900)に上京して諸家の系図を収集して以来、37年目の偉業でした。

 同書の巻末に太田先生は「稿終つて」という題で「朝から寝るまで書き続け、毎日平均三十枚、一年に一万枚づつの原稿を書いて、二年となり三年とたっても、まるで末の見通しがつかず、身体も疲れ、資力も尽き、生活が次第に苦しくなったので、何度やめようとしたか知れぬ、出来ない事を無理押にやって居るように思へたからである。しかし止めにしたら如何なるか、自分ばかりでなく、迷惑をかける人が甚だ多いので、絶体絶命窮死に陥るに違ひない、そんな訳でやむなく悪闘を続けた。」と書いています。

 そして長男の通昭氏が書いた「父の思い出」には「父が古代社会制度の研究を始めたのは十五歳のころからのようだが、七十二歳で死ぬまで書き続けていた。私が子供のころのことだが、そんな父を見て不思議でたまらなかった。父は毎日なにをしているのだろう。朝から書斎にはいって、私たち子供が夜ねむくなっても出てこない。たまに外出して帰って来ても、私たちとは何も話もしないで、洋服を着たまま書斎にはいってしまう。私たちは書籍と原稿用紙の散らかった父の書斎にはほとんどはいったことがない。母もその部屋の掃除はできなかったようだ。

 私たちは、近所の子供たちが両親に手をとられて、遊びに行くのを指をくわえて見ていた。翌日、学校で友だちは両親とどこかに行って来たことをおもしろそうに話している。そんな友だちがうらやましくてたまらなかった。しかし、ごくまれに私も父と外出できることがあった。そんなときは出かけるまではうれしかったが、出てみると、やっぱりがっかりした。電車に乗っていても歩いていても、父は何かを考えている。少しも私たちといっしょになってくれない。

 ときにはこんなことがあった。上野の動物園のあたりを父と歩いていた。もちろん私は動物園に入れてもらえるものと思っていたら、だまって通り過ぎて、上野図書館の前まで来て、お前はここで待っていろ、動くんではないぞ、と言い残してはっていってしまった。どのくらい待たされたか記憶していないが、図書館のまわりをぐるぐる回っていた自分をおぼえている。」とあります。太田先生の人生は研究と執筆にすべてが捧げられていました。

 『姓氏家系大辞典』の執筆と相前後して系譜学会を創設し『系譜と伝記』を刊行。在野の系図研究家の交流の場を作りましたが、こちらも経済的には苦しく義理を欠くことが多かったとこぼしています。吉川英治が編集者の頃、太田先生に原稿を頼みに行くと、法外な原稿料を要求されました。吉川が高すぎると言うと、太田先生は「私は国民の系図を一人で調べ上げたのだから、これくらいもらっても決して高くはない」と反論したと言われています。

 昭和16年(1941)には立命館大教授になり、昭和20年(1945)には『日本上代ニ於ケル社会組織ノ研究』で法学博士号を取得。戦後は近畿大・専修大教授をつとめました。ほかに『家系系図の合理的研究法』(『家系系図の入門』と改題されて刊行。国立国会図書館デジタルコレクションで閲覧可能)などがあり、昭和31年(1956)5月27日に71歳で亡くなりました。


丹羽基二 大正8年(1919)ー平成18年(2006)

 大正8年(1919)に栃木県佐野市で生まれ、昭和19年(1944)に國學院大學国文科を卒業。卒論のテーマは源氏物語で、柳田國男、折口信夫、太田亮、樋口清之らに師事し、幼時、栃木県佐野市に住んでいたころ、隣組の住人の苗字が四十八願(よいなら)だったことに関心を抱き、師事した柳田國男にその苗字について質問をしたところ「丹羽君、苗字の研究をしなさい」と言われ、苗字の研究を開始しました。

 女子高の教師のかたわら苗字調査を続け、昭和48年(1973)に『家紋』(秋田書店刊行)を執筆。教頭の業務の合間に原稿を執筆することに限界を感じ、昭和55年(1980)に教職を早期退職すると、『新編姓氏家系辞書』の執筆ら没頭。その関心は苗字だけにとどまらず、全国の100万基の墓を巡って家紋を採集して歩き、1992年に『図説 世界の仏足石』を母校國學院大學に提出して文学博士号を取得しました。晩年は北海道名寄市で計画された日本苗字博物館構想の相談役となり、東久留米市の自宅と名寄市を何度も往復しました。また僻地への旅行を趣味としており、自宅の客間の壁には、パプアニューギニアの原住民から譲られたペニスケースがずらっと掛けられていました。南極にも足を延ばしています。

 丹羽先生の自宅を訪問した者が忘れられないのは、トイレでしょう。壁の三面に天井まで『角川日本地名大辞典』が積み上げられていた光景は、いまでも眼に焼きついて忘れられません。

 日本家系図学会会長、「地名を守る会」代表を務めました。オリエンタル大学の名誉教授。

 平成18年(2006)8月7日に肺炎のため逝去(せいきょ)されました。

 『日本人の苗字―30万姓の調査から見えたこと』に「太田亮の奇妙な生涯」と題して丹羽先生が太田先生の事を書いています。

 「(太田先生)が確かに、正統な学問として認められた業績は、最後に挙げられた本(『日本上代に於ける社会組織の研究』国立国会図書館デジタルコレクションで閲覧可能)くらいかもしれない。学者は総じて結論を急ぐけれど、残された資料が乏しいのにも関わらず、膨大な姓氏を読み解くこと自体、あまり実のあることとは思えない。系譜の多くは偽者であって『君子危うきに近寄らず』が本来賢い。太田先生自身もそう仰っていた。『世の名誉心を変に刺激してもどうかなぁ』と。

 しかし、だからこそ、この学問は折り目正しい考古学や民俗学と違って、衆生(しゅじょう)のなまなましい歴史的実感を捉(とら)えた。太田先生によってはじめて、歴史とは個人の歴史の集成であると、人々は気づかされたのだ。

 子供の頃から古代史を調べるのが好きだった、という先生。父上もまた系譜好きで、著名な家系はみな暗唱できたというから血は争えない。そのせいかどうか、代々続いた実家の酒屋を潰してしまった父上。学問好きの放蕩(ほうとう)家だったと見える。

 翻(ひるがえ)って先生は、役人、居胤、教授(のちに図書館長も兼任)の凡々とした勤めの傍ら、コツコツ原稿にいそしんだ。しかし、それは『回顧さへ身震ひを禁ずるを得ない』と綴るように、凄まじい去私の仕事だったらしい。

 『笑いも涙も怒りも、金の計算も、浮世のことはなんにも知らない』と回想するのはご長男の通昭さんだ。

 数年かけて一大金字塔『姓氏家系辞書』をまとめ終わると、追われるように『日本国史資料叢書』全12巻を約7年で完成させ、『姓氏家系大辞典』に着手。これも7年で上梓(じょうし)している。それも誰一人手伝うものもなく全く独力で!

 この間、生活のために、まさしく片手間に腰掛け仕事や臨時雇いを仕方なしにこなしていたが、著述最優先の生活。だが、こんなマニアックな本を版元は歓迎はしない。はじめは小さな出版社が渋々出してくれたが、もらう稿料も小遣い銭くらいだったという。『大辞典』の三巻目にとりかかっているころは、『原稿用紙にも事欠き、藁半紙(わらはんし)に鼻水を垂らしながら書く父と、それをじっと見ている母も哀れでした』と通昭さん。もっと幼い頃は、自分の父はべつにちゃんといて、先生は『へんてこな下宿人』だと思っていたそうだ。

 趣味もなく、友人も少なく、楽しみといえば夕餉(ゆうげ)の前のわずかな飲酒。酒肴(しゅこう)もほぼ決まっていて、卵焼きに豆腐。それさえ突っついておれば、ご機嫌だったという。

 私も若かりし頃、先生を何度か訪ねた。そして、この晩酌にもおつき合いした。すると、盃(さかずき)を手にした掌(てのひら)が見えた。升かけの相。右から左、横一線に明瞭に走っている筋の上に、カタカナのサのように二本架かった筋。これは天下を獲る人の相なのだ。信長、秀吉、家康...みなこの相あったという。それがちらと見ただけですぐわかった。私は喰えない時分、手相屋の看板を家にかけたり、中野駅前に虫眼鏡を持って立ったこともあるくらいプロはだしなのだ。

 孤高という意味では、先生はまさに天下に類を見ない天才だったが、晩年の昭和20年、61歳でようやく母校立命館から法学博士号を授与される以外に、名誉とは無縁な人生だった。最後まで教壇に立ち、専修大学での講義の帰途、突然路傍で倒れ、何日か後に息を引き取られた。

 『もう、私の後にも先にも姓氏学なんて愚かな学問をやるヤツはいないさ。それでいいんだ』

 私は先生と杯を傾けたときに承(うけたまわ)った言葉を、今では私自身がほろ苦く口にしている。」

 丹羽先生もお酒はいけるほうで、ほろよい加減で原稿を書かれることもありましたが、平成の南方熊楠と呼ばれるほどの博覧強記で、筆もめっぽう速い。そうして書かれた本は150冊に達しました。しかし、国語学会からも歴史学会からも評価されることはなかったため、口癖は、

「苗字の研究なんてものは利口な人のやることじゃない。なぜなら答えが出ないからさ。答えが出ないものは学会では決して認められんよ。利口な人は答えが出る学問をやるもんだし、金持ちになりたいのなら株でも勉強した方がよっぽどいい」

 というもの。そう言いながら、ビールを飲んでニコニコしながら私にはしきりと跡を継ぐように勧めるんですからね。どうも私は愚か者だと思われていたようです(苦笑)



丸山浩一 昭和6年(1931)ー令和3年(2021)

 昭和6年(1931)に函館で生まれ、新聞記者のかたわら系図を研究し、丹羽先生とともに日本家系図学会の設立に参加。同会が家系図作成の業務を開始すると、その調査部門を一手に取り仕切りましたが、依頼者との間でトラブルが発生し、丸山先生は同会を去り、秋田県本荘市(現在の由利本荘市)に転居して、新たに家系研究協議会を発足させました。同会は大阪を拠点として、現在も活発に活動しています。

 丸山先生は「苗字の丹羽、系図の丸山」といわれ、おもに系図研究を深め、『改訂増補 系図文献資料総覧』『家系のしらべ方』『姓氏苗字事典』を書き、地元の秋田の苗字についても研究されました。


 私が本荘の自宅に泊まらせていただいたとき、二階に敷かれた布団の横に、さりげなく灰皿と水を置いておいて下さった奥様の気遣いが、いまでも心にしみて忘れられません。そのころ私は煙草を吸っていましたから、きっと夜中に吸いたくなるだろうと思われたんでしょうね。いまは煙草も辞めましたが、思えば丹羽先生の奥様悦子さんも丸山先生の奥様もどちらも素敵な方でした。お二人とも内助の功を尽くされました。とくに丸山先生の奥様は若くしてお亡くなりになられたことが惜しまれます。

 丹羽先生の死後、日本家系図学会の会長には武田光弘氏が就任しましたが、同氏は同会の解散を宣言。同会は消滅の危機を迎えましたが、宝賀寿男氏を新会長に迎えて存続されることになりました。なお宝賀氏は現在、明和3年(2021)に死去された丸山先生のあとを受けて家系研究協議会の会長も兼務されています。