珍姓の由来



珍姓の由来

 苗字には、数の多い大姓もあれば、ほとんど見かけない珍しい苗字もあります。そういう珍しい苗字のことを珍姓といいます。では、珍姓といわれる苗字の由来をいくつか読み解いてみましょう。


本庶 ほんじょ

 Honjo 仏教型

 全国順位 57,432位 全国人数 約30人

 京都大学名誉教授の生化学者で、2018年のノーベル医学生理学賞を受賞した本庶(ほんじょ)佑さんによって有名になった苗字です。

 本庶佑さんのルーツは富山市。同市中老田にある浄土真宗本願寺派の本庄山専称寺のご住職が本家とのこと。同寺は第71代後三条天皇(1032-73)の第三皇子園宮(皇室系図に見える輔仁親王ののことか)に従って越中(富山県)へ下向した藤原五郎丸が開基したお寺といわれています。

 この藤原五郎丸という人物については詳細が不明ですが、奇しくも滋賀県犬上郡甲良町大字下之郷ににある浄土真宗本願寺派の西応寺にも同じような伝承があり、平安末期に琵琶湖西岸の志賀郡に住んでいた藤原五郎丸という人が出家し、心覚大僧正と号して西応寺を開基したというのです。さらに心覚大僧正にこだわると、同時代の真言宗の高僧に心覚という人物がいますが、その父親は藤原姓ではなく平実親とされています。

 藤原五郎丸の素性については、このあたりで藪の中になりますが、いずれにしてもこの人物が専称寺を興し、当初は浄土真宗のお寺ではありませんでしたが、文明4年(1472)に本願寺8世蓮如が越前国吉崎御坊(福井県あわら市吉崎)に滞在して布教に努められたとき、感じるところがあって浄土真宗に改宗しました。そして天正元年(1573)になって現在の中老田の地に移ったとされています。

 山号の本庄山はこのお寺のある地が周辺村落の中心地だったことに由来していると思われ、ご住職は明治になって苗字を付けなければならなくなったとき、山号の本庄を本庶と改めて苗字にしたようです。文字を変えたのは山号をそのまま使うことを憚ったためでしょうが、「庶」文字を選んだ理由は何でしょう。浄土真宗は身分の上下に関わらず、広く「庶」民を極楽浄土へ導くことにちなんだものでしょうか。あるいは「庄」と「庶」は同じまだれで似ているだけではなく、「庶」という漢字には何かを強く願うという意味があるからかも知れません。

 本庶さんはスピーチで「決して諦めないこと」を強調されていましたが、その諦めない心は、庶の「強く願う」という意味に通じるところがあります。本庶さんの諦めない心は庶に源があるのかも知れません。


松雪 まつゆき

 Matsuyuki  地名型

 全国順位 9,370位 全国人数 約810人

 女優の松雪泰子さんで有名になった松雪姓。彼女は佐賀県鳥栖市出身で、同市酒井東町周辺に密集しています。

 松雪という言葉は、真冬、雪に埋もれながらも緑を絶やさない松が生命力の強さを象徴し、絵的にも縁起が良く風流であることから、一芸に秀でた人の斎号や雅号、僧侶の出家号、寺院名などに利用されてきました。足利将軍の同朋衆である絵師の相阿弥は松雪斎鑑岳と号し、山梨県大月市大月2丁目にある浄土宗無辺寺は僧侶の行蓮社吟松雪が開山したといわれています。同県甲府市にはかつて臨済宗の松雪寺(現在は廃絶)もありました。

 このうよに松雪という言葉は各方面で使われていますが、鳥栖市に多い松雪姓は地名から発祥したものでしょう。本来は「まちゆる」の意で、「まち」は人々が集まって住む集落、町のことです。これが変化して佳字(おめでたい文字)の「松」になったのでしょう。全国の松地名のなかには「まち」から転訛(てんか)したものが、かなりあると思われます。

 「ゆき」は空から降って来る雪ではなく、川などで土砂が揺り上げられることを意味する「淘 (ゆる)」か、土砂がゆるんで崩れやすくなっている「弛(ゆる)」が「ゆき」に変化したものでしょう。その「ゆき」に雪の漢字を当てたものと思われます。

 鳥栖市で松雪姓が多い酒井東のあたりは、筑後川の水害にたびたび見舞われ、堤が崩れやすく、押し流された土砂が堆積する場所でしたから、まさに「まつゆき」の地でした。


永作 ながさく

 Nagasaku 地名型

 全国順位 6,698位 全国人数 約1,400人

 女優の永作博美さんで有名な苗字です。彼女は茨城県行方麻生の出身。麻生は江戸時代に麻生藩新庄氏の陣屋が置かれていた町ですが、永作姓の方が多く住んでいます。苗字の由来は地名型で、福島県二本松市上川崎には永作という地名があります。語源は二つの説が考えられ、一つは山間地や窪地のことを「さく」ということから、そういう地形が長く延びている場所のことを「ながさく」といい、これに永作という文字を当てたという解釈。もう一つは永作手(ながつくて)に由来する説。永作手とは、中世に使われた言葉で、農民が先祖代々所有権を持っていた田地のことをいいました。農民にとっては縁起の良い言葉でしたから、自分の持っていた土地を「永作手」と呼んでいたものが、いつしか語尾が欠落して「永作」となり、それが地名化したものかも知れません。


大慈弥 おおじみ

ojimi  地名・佳字型

 全国順位 29,617位

 全国人数 約110人

 札幌市の地元テレビ局、札幌テレビ(STV)のアナウンサーに大慈弥レイという方がいます。大変に珍しい苗字で、旧字で大慈彌と書かれることもあります。大慈弥レイさんは東京都出身とのことですが、この苗字の故郷は豊後国宇佐郡宮熊(みやぐま)村、現在の大分県宇佐市宮熊です。

 この宮熊村から全国に広まったと思われる大慈弥さんですが、その語源は「おお」が大きいか単なる美称の接頭語で、「じみ」は「浸(し)む」で水がしみる土地、すなわち湿地のことでしょう。

 宮熊村は伊呂波川と五十石川にはさまれた平野です。かつては湿地が広がっていたのかも知れません。そこに「おおじみ」という地名が付けられ、そして「大(大きい・立派)」

「慈(慈悲・慈しむ)」「弥(いよいよ・ますます)」という縁起の良い文字を当てたものと思われます。「大いなる御仏のお慈悲がますます衆生にゆきわたる」という意味にも解釈できます。この文字を当てたのは僧侶かも知れません。


朝妻 あさつま・あさづま 

 Asatsuma・Asazuma  地名型

 全国順位 5,197位  全国人数 約2,000人

 地名は滋賀県米原市朝妻筑摩、兵庫県加西市朝妻町、 奈良県御所市朝妻などがあり、苗字は新潟県新潟市西区に密集が見られます。語源は①「麻(あさ)つ間」で、麻を栽培して麻織をしていた所、②浅(あさ)には低いという意味もあるので、低い山や台地。間(ま)は接尾語で土地、などが考えられます。奈良県の朝妻地名から朝妻造(あさづまのみやつこ)が発生し、滋賀県米原市の朝妻地名はこの朝妻造が移住したことによって名付けられたといわれています。兵庫県の朝妻には第24代仁賢天皇の第二皇女朝嬬皇女(あさづまのひめみこ)が住んでいたとも、その墳墓があるという説が残っています。


生稲 いくいな・いくいね 

 Ikuina Ikuine 地名・物象・事象型

 全国順位 7,608位 全国人数 約1,100人

 タレントの生稲晃子さんで有名な苗字ですね。彼女は東京都の出身ですが、生稲姓は千葉県南部の南房総市と館山市に密集しています。

 この苗字は地名発祥で、語源は①刈り取ったばかり稲、②船底が平らな小船。徳島県の方言でこのような舟を「いくいな」といいました。収穫した稲を運搬したことにちなんでいるのかも知れません、③徳島県勝浦郡勝浦町 沼江田中71に生夷(いくい)神社があり、その神社名の元になった生夷庄は「いくいな」と読みました。生夷神社では事代主命(ことしろぬしのみこと)を祀(まつ)っていますが、この神様は夷神ともされ、「いくいな」とは「いくひな」の転で、夷神の生まれたところという解釈も成り立ちます。


一番合戦 いちまかせ・いちまがせ 

 Ichimakase・Ichimagase 当て字型

 全国順位 56,122位  全国人数 約30人

 苗字は佐賀県と兵庫県にあります。一番合戦という苗字の発祥地は佐賀県神埼市脊振町服巻一番ヶ瀬(いちばんかせ)といわれています。この地は一番合戦とも書き、『脊振村誌』によれば、九州に下向した後鳥羽上皇がこの地で35日間も賊に襲撃されたとき、その一番合戦が起こった地であったことから、一番合戦と書いたとあります。とはいえこれは後世の付会です。本来の語源は一曲瀬(いちまがせ)で川の浅瀬が曲がっているところのこと。その一曲瀬に武士が好む一番合戦という漢字を当てたものです。