『姓氏家系大辞典』を読む


 家系図作成のため今回は『姓氏家系大辞典』を読みます。

 『姓氏家系大辞典』は立命館大学教授で古代史を専門にしていた太田亮(あきら。1884-1956)博士が人生の大半をついやして書き上げた不朽の名著です。全三巻の構成で、苗字を五十音(歴史的仮名遣い)に並べ、第一巻には「アーカ」、第二巻には「キート」、第三巻には「ナーワ」が収められています。そのルーツ解説は典拠文献の書誌事項が不明な場合があることと使用した文献が上野図書館(都立中央図書館)の蔵書にほぼ限定されている問題点を除けば、詳細を極め、大姓の場合にはゆうに100項目を超えています。現在でもすべての苗字解説本に多大な影響を与えており、その輝きは一向に陰ってはいませんが、昭和9~11年にかけて刊行された古い本のため、現代人にとってはとても読みづらくなってしまいました。ひらがなは歴史仮名遣いが使われ、漢字は旧字体が用いられ、記述も書名の省略や系統の要約表記など、ある程度の歴史的な知識が無いと内容を読み取ることは困難です。そのため、膨大な情報が詰め込まれているにも関わらず、多くの家系調査では完全に使い切られてはいません。

 では、浅野の項を見てみましょう。

『姓氏家系大辞典』浅野項(1)
『姓氏家系大辞典』浅野項(1)
『姓氏家系大辞典』浅野項(2)
『姓氏家系大辞典』浅野項(2)

  1. 冒頭に「美濃、尾張、信濃、讃岐」とあります。これはいずれも旧国名で、これらの国に浅野村という地名があったと書いてあります。この旧国名が現在のどこなのかが分からないと、まずは最初からつまづいてしまいます。美濃(みの)は岐阜県、尾張(おわり)は愛知県、信濃(しなの)は長野県、讃岐(さぬき)は香川県です。
  2. 「1 美濃の浅野氏」と項目が立っています。以後、出自が異なったり、地域が異なるこどに項目が立てられます。田中さんなどの場合は、ゆうに100項目を超え、数ページに及びます。
  3. 「清和源氏土岐氏の族にして、」とあります。清和源氏とは、第56代清和天皇(850-81)の流れをくむ清和源氏のことです。土岐(とき)氏というのは清和源氏の中のアドレスのようなもので、源満仲の嫡男頼光の流れをくむ系統を指します。いちいち清和源氏のうち満仲の嫡男頼光の流れをくむ土岐氏の一族と書くのは長く、煩雑なため、系図の世界では清和源氏土岐氏族と縮めて表記します。この系図のアドレスに慣れるまでは、清和源氏のうち、土岐氏がどこに位置するのか分からず、迷子になってしまいますが、清和源氏全体の系図を横に置いて、そのなかから土岐氏を探す練習を積んでいけば、自然と覚えらるようになります。
  4. 清和源氏土岐氏の流れをくむ浅野氏の系図が掲載されています。この系図は室町時代(14世紀後半)に京都の公家洞院公定らが編さんした『尊卑分脈』から抜粋されたもので、源頼光から始まり、土岐光信をへて、そのひ孫の光行が浅野判官、弟の光時が浅野二郎と名乗って、浅野氏の祖となったことが分かります。
  5. 「近世浅野侯は頼隆の後裔なり」とあります。近世浅野侯というのは、江戸時代(1603-1867)に広島藩(広島市)42万6,000石の藩主だった浅野氏のことです。忠臣蔵で有名な播州赤穂藩(兵庫県赤穂市)5万3,500石の浅野氏はその分家でした。この浅野氏は4の系図に見える浅野光時の子孫浅野彦三郎頼隆の末裔であると解説しています。
  6. 「2 尾張の浅野氏」とあります。ここで取り上げられているのは、豊臣秀吉の義兄弟にあたる浅野長政の出自についてです。まず江戸時代の通説に従って長政の系統は尾張国丹羽郡浅野村(愛知県一宮市浅野)から出た家だと紹介し、もしもそれが事実であれば1の清和源氏土岐氏族の浅野氏との関係が怪しくなると問題提起をしています。しかし太田先生は美濃国土岐郡浅野村(岐阜県土岐市肥田町浅野)から発祥した清和源氏土岐氏族の浅野頼隆の末裔が、尾張国丹羽郡に住み着いたことにより浅野村の村名がおこったのであれば、つじつまがあうではないか、と自説を述べています。
  7. ところが、もう一つ問題があります。天正20年(1592)の若狭国(福井県)の神社の棟札に浅野長政は「藤原」と署名しているのです。後に大大名となった浅野氏の系図であっても、このように矛盾した記録が残されているため本当のところはよく分からないのです。中世系図の難しさが垣間見えるような記述です。
  8. 大名浅野家の家紋です。これは江戸時代(1603-1867)に刊行された『武鑑』から転載したものでしょう。現在、家紋図鑑に収録されている大名浅野家の家紋は「浅野鷹の羽」です。浅野鷹の羽は通常の違い鷹の羽とは異なり、右羽が上になり、羽根の中に渦巻き模様があります。しかしこの武鑑から転載したと思われる家紋は左羽が上(通常の違い鷹の羽と同じ)になっています。中段真ん中の「五瓜に浅野鷹の羽」も左羽が上です。中段左のものは現在の浅野鷹の羽と同じ形です。どうやら大名浅野家のなかで羽根の重ね方については歴史的に変化があったと思われます。なお武鑑とは大名や幕府役人の氏名・石高・俸給・家紋などを掲載した冊子で、民間の版元が毎年出版していました。江戸土産として人気があったことでも有名です。
  9. 『寛永諸家系図伝』と『寛政重修諸家譜』に基づいた系図が掲載されています。『寛永諸家系図伝』と『寛政重修諸家譜』はどちらも幕府が編さんした大名と旗本(将軍に拝謁できる上級武士)の系譜集で、『寛永諸家系図伝』は3代将軍家光の時代、寛永20年(1643)に完成し、『寛政重修諸家譜』はそれを書き継ぐ形で11代将軍家斉の時代、文化9年(1812)に出来上がりました。大名、旗本の系譜を調べる時には基本史料とされているものです。太田先生は『寛政重修諸家譜』 の後も付け加えて、明治まで系図をのばしています。
  10. 「3 松平流」とあります。これは徳川家康の旧姓である松平氏の一族にも浅野氏がいたということです。松平一族は世に十八松平といわれるほど分流がありますが、浅野氏は深溝松平氏から出たとあります。
  11. 「4 秀郷流藤原氏」とあります。これは第38代天智天皇の重臣藤原鎌足(614-69)の流れをくむ藤原秀郷将軍の子孫に浅野氏がいるということです。秀郷の末裔である下野国(栃木県)佐野氏の一族に浅野宗利という武士がいたと書いてあります。
  12. 「5 陸奥の浅野氏」とあります。陸奥とは旧国名で、現在の青森・岩手・宮城・福島県のことです。現在の青森県南部から岩手県中北部を支配していた南部氏の建武元年(1334)の文書に浅野太郎という武士の名前が見えるとあります。
  13. 「6 伯耆の浅野氏」とあります。伯耆とは旧国名で、現在の鳥取県中西部です。幕末に編さんされた伯耆の地誌である『伯耆志』に浅野越中守(えっちゅうのかみ)實(実)光という武士が見えるとあります。この浅野越中守がいつごろの人物であるのかは、『伯耆志』にあたってみなければ分かりませんが、室町後期から戦国時代の人物であれば、越中守という官職は朝廷から賜ったものではなく、自分で勝手に名乗っていた私称でしょう。その時代の地方の武士の官職はほぼ非公認の私称でした。そのことを踏まえていないと、大きな勘違いをしてしまいます。
  14. 「7 土佐の浅野氏」とあります。土佐とは旧国名で、現在の高知県のことです。暦応3年(1340)の記録に浅野孫九郎という武士が見えるとあります。経も応も党も旧字体で書かれています。左衛門尉(さえもんのじょう)という官職も読めない場合は調べる必要があります。
  15. 「8 其他…」とあって、1~7では取り上げられなかったさまざまな記録に見える浅野氏をまとめて紹介しています。この項目でよく目にするのは、江戸時代の諸藩の分限帳や重臣名簿(『武鑑』)に見えるその苗字の記載です。


 『姓氏家系大辞典』には約5万種類の苗字が収録されていますが、数行以上の解説がなされているのは、ほぼ3万姓です。関東と東海地方の苗字は詳しく採録され、解説も詳しいですが、その他の地域の苗字は未収録のものも数多くあります。また太田先生は、ほぼ古代・中世の文献記録しか調査しなかったため、近世(江戸時代)以降の記述は非常に少ないの惜しまれるところです。とはいえ、独力で7,000ページに近い原稿を執筆されたことは前人未到の業績です。戦前の辞典ですから、そろそろこの辞典の現代語訳か増補版が出てもいいのが、あまりの大著のため、誰も手が付けられないというのが現状です。ただし角川書店は近世に弱い『姓氏家系大辞典』を補うべく、1989年から98年にかけて近世に重点を置いた『角川姓氏家系歴史人物大辞典』を刊行しましたが、現在のところ岩手、宮城、群馬、神奈川、富山、石川、山梨、長野、静岡、愛知、山口、鹿児島、沖縄の各県と京都市の巻で刊行が中止されています。この辞典の完結が待たれます。