津田梅子のルーツ

2019年04月17日

 

 明治6(1873)年、わずか6歳で岩倉使節団に加わり、アメリカに留学した津田梅子は、帰国すると女子英学塾を開き、女性の教育に尽力した。この塾が現在の津田塾大学の前身である。

 梅子は津田仙 の二女として生まれた。父の仙は下総国佐倉藩(千葉県佐倉市)の堀田氏の家臣小島家に生まれたが、後に幕臣となり津田家の婿養子となった人である。英語を自在にあやつり、慶応3(1867)年には福沢諭吉らと共に通訳としてアメリカに渡っている。帰国後は新政府に出仕したが、明治6(1873)年に今度はオーストリアのウィーンで開催される万国博覧会に随員として参加した。仙は欧米の両大陸をその目で見た明治初期の日本人としては非常に少ない国際経験の豊富な人物だった。娘の梅子をアメリカに留学させたいと願ったのも、そまためである。仙は明治8(1875)年にキリスト教の洗礼を受けると、後半生は農業の普及と出版活動を活発に行った。

 津田家は織田木瓜(もっこう)の家紋を使っていることから、ルーツは織田信長 の同族で近江国津田(滋賀県近江八幡市津田町)から発祥した系統と考えられている。織田氏の庶流は古来から津田姓を称する習慣があり、信長の弟信勝の子信澄も織田姓ではなく、津田姓を名乗っている。津田の語源は「つ(港)た(接尾語で場所)」で、港のことだろうか。

 梅子の伯母竹子は田安家の徳川慶頼の側室となり、徳川家達を生んだ 。家達は15代将軍慶喜が隠居すると、代わって徳川宗家を相続し、静岡藩主となった人物である。この家達と梅子はいとこにあたる。