我々の苗字はいつ決まったのか


 みなさんは「名字の日」があることをご存じだろうか。2月13日は「名字の日」と呼ばれている。なぜこの日が名字の日かというと、今から143年前の明治8年(1875)2月13日、明治政府は苗字を戸籍に登録するよう「平民苗字必称義務令」を布告したからである。現在、我々が使っている苗字(記念日名は名字だが、歴史的には苗字が正しいので、本稿では苗字と書く)は、この時に決定され、以後変更することができなくなった。しかし、この国民皆姓は順調に進んだわけではなかった。

 明治政府が最初に出した苗字に関する布告は、明治3年(1870)9月の「平民苗字許可令」である。このとき政府は庶民にも苗字を許したが、これは翌4年に出される戸籍法の布石でもあった。政府は富国強兵のため、まずは人口を正確に把握したかった。そうしなければ国民に課税し、徴兵することもままならない。その戸籍上で個人を区別するために庶民の苗字使用を許したのである。だが、当の庶民はとまどった。なかにはこれで武士と同じになったと大喜びし、刀を差して往来をかっ歩する者もいたが、そんな者はほんの一握りで、数多くの庶民は政府を疑っていたのだ。

 幕府が政府に変わっただけで、どうせお上のやることは変わらない。きっと戸籍に登録なんぞしたら、真っ先に税金を取り立てられ、徴兵に引っ張られて血を抜かれるに決まっていると思ったのだ。当時、徴兵は血税といわれ、庶民は生き血を抜かれると恐れていた。そのために戸籍法が発布され、翌5年から壬申戸籍(明治5年の干支が壬申なので、壬申戸籍と呼ばれた)の作製が開始されても、庶民はなかなか登録に行かなかった。

 遅々として進まない戸籍作製にいらだった政府が最後のダメ押しとして布告したのが、明治8年の「平民苗字必称義務令」である。これによって国民皆姓は達せられ、明治政府による近代化が進められていった。


実は江戸時代の農民にも苗字はあった

 ところで我々の苗字にまつわる誤解として、その大半がこの明治初期の戸籍登録の時に創作されたというものがある。苗字の話をしていると「どうせうちの苗字は明治になって適当に付けたものだから、いわくも由緒もない」と言い切る人がいる。ちゃんと家系を調べてそういう結論に達したわけではなく、ただ何となくそう思っている人が多い。名の知れた歴史家の中にもそういうことを平気で言う人がいるのだから、これは相当根深い誤解だといえる。

 結論からいうと、我々の使っている苗字の大半は江戸時代どころか、もっと古い歴史を持っている。家系を調べてみると、苗祖(苗字の始祖)は1.000年前の人だったということも珍しくはないのだ。

 江戸時代、たしかに幕府は庶民の苗字使用を厳しく取り締まり、苗字と帯刀は武士など特権階級のシンボルだったが、だからといって庶民が苗字を持たない無苗の者だったということではない。戦後になって江戸時代の庶民文書が次々と調べられ、確かに江戸時代の戸籍ともいえる宗門人別改帳などの公的文書には、庶民の苗字は見えないが、同じ宗門人別改帳でも庄屋が手控えとして私的に作った副本のほうには村人全員の苗字が書かれていたという例が多数報告されている。寺院や神社に残されている古文書の中にも庶民の苗字は大量に見つかっているのだ。

 思えば江戸時代の庶民の多くが苗字を持っていたのは、至極当然な話である。江戸時代、農民だからといってそれ以前から連綿と農民だったという家は稀である。戦国時代に滅亡した大名は数知れない。江戸時代に取り潰された大名も多い。それらの大名家にはそれこそ膨大な数の武士たちがいた。その多くは帰農して農民となったのである。このように江戸時代の庶民の中には武士の子孫の系図につらなる者が大勢いた。日本は狭い島国である。その狭い土地の中で、我々の先祖は武士になったり農民になったりを繰り返してきたのだ。そう考えると家系の貴賎などはどうでもよいことだ。武士の祖先は農民、農民の祖先は武士なのである。


苗字と家紋の関係

 我々の苗字が明治になって適当に付けられたものでないことは、苗字と家紋の関係からも証明できる。私が苗字の研究を始めた40年前のころは、苗字に関する本もまだ少なく、今以上に苗字は適当に付けられたと信じられていた。たかが明治初年から100年ほどの歴史しかないものを研究して何の役に立つんだと言われたこともあった。しかし、私は当時からある疑問を感じていた。それはある苗字の家が使う家紋に明かな片寄りがある点である。たとえば佐藤さんを例にとると、佐藤さんは全国に約200万人もいて、適当に付けた典型的な苗字と思われがちだが、聞き取り調査を行ってみると、7割ほどの家は源氏車と藤、水車紋を使用していたのだ。これらの紋は源義経に仕えた佐藤継信、忠信兄弟など史上著名な佐藤家が愛用したものである。

 これはどういうことか。家紋は2万種類以上もある。全国の佐藤さんが明治になって、適当に佐藤という苗字を付けたとしたら、その苗字と組み合わせる家紋の選択肢は2万以上である。しかし、調べてみるときれいに佐藤一族は三つの家紋に集中している。なかには佐藤という苗字を付けた時、由緒ある佐藤家の家紋を同時に盗用したのではと、考える人もいるかも知れないが、ある苗字が多用する家紋の統計データーが世に出たのは、明治末期以降である。それもごく一部の研究家の間で知られたことであって、明治初年の庶民が簡単に知り得る情報では決してなかった。そうなれば、やはり佐藤という苗字は適当に付けられたものではないという結論に至る。佐藤さんの苗祖は平安時代(794-1192)、左衛門尉(さえもんのじょう)という役職についた佐藤公清(きんきよ)だといわれている。もちろん全国の佐藤さん全員がこの人物の血を分けた子孫ではないが、少なくとも大半の佐藤さんは、この人物の子孫と深いかかわりを持ち、佐藤公清を精神的なルーツとしている家系なのだ。

 我々の苗字は子孫がいる限り使われ、伝えられてゆく。それこそ気が遠くなるくらい呼ばれ、名乗り、書くものである。こんなに身近な文字はない。ならば、せめてその文字の由来くらいは知ろうではないか。それが分かった時、私たちは自分がどこから来た何者なのかを本当に知ることができるだろう。