除籍の読み解き(3)


 家系図作成のため今回も除籍を読み解きます。


サンプル3
サンプル3

 

 第三講では、大阪府の除籍をサンプルに使いましょう。


  1. 第三十三番屋敷とあります。これは明治初期、まだ土地に番地がふられていなかったため、家そのものに通し番号をつけたのです。全国的には〇〇番屋敷が多く、西日本では〇〇番戸、〇〇番邸(兵庫・岡山県で目立つ)と書かれたものもあります。番号のふり方には一定の法則があったとされ、県庁に近いほうから第一番屋敷と付けていったという記録が残されているほか、戸長(村長的存在)の家(役場)から順番につけたとも考えられます。いずれにしても数字は小さいほうが中心地(県庁・戸長役場・鎮守の神社)に近い可能性があります。
  2. 新平は■■七郎平の三男に生まれ、文久2年(1862)32歳のとき、養父新兵衛の養子になりました。
  3. 新平は慶応3年(1867)に37歳で家督を相続しました。このとき養父の新兵衛が亡くなったものと思われます。
  4. ところで、養父新兵衛の養子が新平。名前が似ていると思いませんか。偶然似た名前の人物を養子に迎えたわけではないでしょう。江戸時代には通常、家督を相続するとき父や養父の名前を襲名したり、その通し字の一字を名前につける習慣がありました。新平も慶応3年に家督相続をするまでは別の名前を使っており、相続と同時に養父の「新」を受け継いで新平と改名したものと推測されます。この改名は明治5年(1872)の近代戸籍作製以前に行われましたから、この除籍には改名した旨が書かれていませんが、これが明治5年以後の相続改名であれば、その旨が記載されます。
  5. サンプル1と2では「前戸主亡父」とありましたが、新兵衛は養父ですから、ここには「前戸主亡養父」と書かれています。
  6. 新平は明治32年(1899)に69歳で隠居しました。満60歳以上になると、本人の意思で簡単に隠居することができました。これを普通隠居といい、簡単とはいえ役所に隠居届は提出しなければなりませんでした。満60歳に達していない者が隠居するときには裁判所に許可を求めなければなりませんでした。これを特別隠居といい、病気などが理由であれば認められました。
  7. 「むめ」の事項欄に珍しい記入があります。「縁女トナル」です。縁女とは「いいなづけ」のことで、婚姻を前提として将来夫となる男の家に入ることをいいました。養女とは区別されていました。
  8. 房太郎は明治32年(1899)30歳で家督を相続しました。家督相続は身分相続でしたから、財産相続とは異なりますが、通例として家督を相続した者は前戸主が死亡するとその財産を一括して譲り受けました。これを単独相続といいます。
  9. 新蔵の「新」は父親「新」平、祖父「新」兵衛の「新」を受け継いだものです。このように先祖代々名前に使用する文字を「通字(とおりじ)」といいます。元々は武家や公家の習慣でしたが、村落社会で上層身分に属する庶民の家でも行われていました。ただし、この家の場合、長男ではなく、二男の新蔵が受け継いでいるのが異例です。通常は長男か、男子全員の名前に使われました。この通字を知ることによって、苗字が無く、名前だけが列記された村方文書からご先祖と思われる人物を推測することができる場合もありました。
  10. 「■■つる夫トナル」とあります。このような記載を入夫といい、「つる」は女戸主と推測されます。家に女子しかいない場合、女子が家督を相続して戸主となりましたが、そういう戸主は女戸主と言われました。女戸主は他家に嫁ぐことが法律で許されていなかったため、新蔵のような二男、三男坊を夫に迎えたのです。そして他家に入って夫になる者のことは入夫と言いました。
  11. 養の異体字です。よく見ると左の美のような文字は、美から横棒を一本引いた形をしています。これは除籍ではよくみかける異体字です。婿の異体字である聟もときどき使われています。異体字とは意味が同じで書き方が異なる文字のことです。
  12. 「離縁復皈ス」と書いてあります。「皈」は「帰」の異体字です。キヌエは生まれてすぐ当家の養女になりましたが、わずか一か月ほどで離縁されて実家に戻されました。
  13. ミノエの生年月日が九月十八日に訂正されています。戦前の戸籍では出生届が大幅に遅れて出されることがありました。それは新生児の死亡率が高かったため、生まれてから1年ほどたって、育つ目途が立ってから届ける親がいたからです。また雪国の田舎では、冬に子供が生まれると雪解けを待って春に届ける場合もありました。このケースはそうではなく、単なる戸籍吏の記載ミスの訂正と推測されますが、戦前の戸籍の生年月日については、かなりの揺れ(不確実性)があることを知っているのは重要なことです。