読書の賜物


 読書をしていて、「これは面白い!」とうなった文章を集めて(引用させてもらい)ました。 こういう文章に出会えることこそが、読書の醍醐味であり、著者からの賜り物です。引用させていただいた著者の皆様、出版社の方々には深く感謝しております。これを読まれている皆様、いずれも読んでためになる良書ばかりです。ぜひお買い求めになってお読みください。 


 彼ら(英国国立公文書館に来ている老人たち)の目的は、自分のたちの先祖をたどろうとする「家系調査」です。家系を調査する学問は系譜学(Genealogy )と呼ばれますが、欧米では趣味の一環として一般市民が取り組んでいるケースが多いのです。TNA(英国国立公文書館)はこのニーズに応えるために、「ロンドン家系調査センター」(London Family Search Center )という専門のブースを閲覧室に設けており、関連する資料が大量に置かれているのです。

 この家系調査センターで調査できるのは、過去の国勢調査の記録や出産、結婚、離婚、死亡届、相続税の支払い記録、軍隊での従軍記録などです。古い電話帳や住宅地図、軍隊名簿などの図書は開架されており、自由に手に取ることができます。また、検索用のコンピュータも置かれており、カンタベリー大主教の下におかれていた大主教特権裁判(Prerogative Court of Canterbury  一定以上の財産を持っている人が死亡したときの遺言状を検認していた)が所有していた遺言状などを検索することができるのです。センターには専属のアーキビストがおり、利用者へのレファレンスが行われています。


『公文書問題 日本の「闇」の核心』 

 瀬畑 源著 集英社 2018年


 日本の公文書の管理と情報公開について具体的な事例を豊富にあげながら分かりやすく書かれたものです。著者の瀬畑源氏は長野県短期大学准教授。本書の中に「公文書館と家系調査」という項があり、日本の公文書館と英米の公文書館の家系調査に対する取り組みの違いを紹介したうえで、日本には差別問題があるため家系調査が社会的に難しい点についても触れています。

 ちなみに明治5年(1872)に作製された壬申戸籍は現在、法務局や地方法務局に集められて何人も閲覧することが許されていません。2001年に情報公開法が施行されると、法務局に対して壬申戸籍を開示するように請求した人はいますが、法務局は「行政文書ではない」という理由で開示を拒否しました。請求者は即刻、情報公開・個人情報保護審査会に不服申し立てをしましたが、同会も法務局の不開示理由を妥当と認め、申し立ては却下されました。壬申戸籍は、現在では戸籍ではなく、行政文書でもなく、歴史史料という扱いで保管されているのです。



 よく知られている通り、戸籍制度は日本独特の制度である。善くも悪くも、古くは奈良時代から日本の伝統・文化のひとつとして機能してきた。その戸籍を記録した除籍簿が廃棄されてしまえば、一人の人間がこの世に存在したことを公に証明するものは何もないことになる。そこから垣間見えるのは、国家が、一人ひとりの国民をどう見てきたかのスタンスである。愛知県豊橋市では、焼却廃棄を予定していた除籍簿が、一人の歴史学者の働きによって廃棄中止に至った事実がある。

 これを支援したのは日本歴史学協会で、協会常任委員会は2006年7月12日、豊橋市長に宛てて廃棄中止を要請した。中止要請の文面には、「私共、日本歴史学協会では貴重な歴史資料である除籍簿はまた住民の存在証明(アイデンティティー)にとって不可欠な記録史料(アーカイブズ)であることから、これを文書館や史料館に移管して保存・管理し研究に役立てることが望ましいと考えています。(中略)除籍簿を焼却処分することは極めて遺憾なことであります。焼却処分を中止するよう強く要請いたします」と記された。が、多くの地方自治体では今でも、除籍簿の廃棄が行われていると聞く。その主たる理由は、「保管しておくスペースがない」というものである。人間には、忘れてしまいたいことがたくさんあるのは確かである。しかし、忘れてはいけないものも厳然としてある。一人の人間がこの世に存在したことを、どのような形であれ残すことは大事なことなのではあるまいか。除籍簿の保存期間を80年(かつては50年)と定めた法律はただちに改められるべきではないだろうか。


『日本の公文書 開かれたアーカイブズが社会システムを支える』

 松岡資明著 ポット出版 2010年


 本書は2010年1月に発刊されました。この年の6月1日に法改正がなされ、除籍簿の保存期間は80年から150年に延長されました。しかしその理由は歴史的な記録の保存ということではなく、単に現代人の平均寿命が女性86.05歳、男性79.29歳に延びたからというものでした。除籍簿は本書で著者の松岡資明氏(執筆当時は日本経済新聞社東京文化部編集委員)が述べている通り、この世に生を享けて、社会の一員として生きた人間の生存の証明として、永年保存にすべきものだと私も思っています。知恵を絞れば解決方法が見つかるはずの「保管場所がない」という理由で唯一無二の記録を焼却処分している地方自治体の処置には首をかしげざるを得ません。



(自分の健康を気にする)人たちに与えることができる最良の贈り物のひとつは、詳しい家系図だ。まず、自分の両親の健康について知っていることを書き込んだあと、両親の兄弟姉妹、両親の親たち、と広げていって、医学関連情報をわかる限り書き込んでいこう。

 書き込む情報は、詳しければ詳しいほどいい。たとえば、特定の薬物に関する過敏反応といった、ある世代の一見些細な問題が、医学面から見た家族歴に多くの情報をもたらしてくれる可能性がある。だから、詳しい家族歴あるいは直接の遺伝子検査を通して自分の受け継いだものをよりよく知ることは、自分の特性を思い出させてくれる重要なきっかけとなる。


『遺伝子は、変えられる。-あなたの人生を根本から変えるエピジェネティクスの真実ー』

 シャロン・モアレム著 中里京子訳 ダイヤモンド社 2017年


 エピジェネティクス(後世遺伝学)の不思議について分かりやすく解説した入門書です。理系の本が苦手な人でも楽しく読むことができます。


 子供にエピジェネティックな影響をあたえるのは父と母だけではないかもしれない。祖父母も関係しているだろう、とエピジェネティックス学者の多くは考えている。デューク大学で太ったクリーム色のマウスを研究した科学者も、イギリスで父親の喫煙を研究した科学者も、エピジェネティックな変化は生殖細胞系を通じて何世代にも伝わると信じている。


 ロサンゼルスの研究グループは、祖母が妊娠中に喫煙していた人は、母が妊娠中に喫煙していた人より多く喘息を発症していることを見出していた。だが、この現象はこれまで科学的に説明できなかった。現在では、タバコを吸っていた祖母が娘の一生分の卵子にエピジェネティック信号を送っていたと理解できる。なお、祖母の喫煙習慣が胎児そのものより胎児の卵子により強く影響することにあなたは首をかしげているかもしれないが、科学者たちもまだその理由についてはわかっていない。


『迷惑な進化 病気の遺伝子はどこから来たのか』

 シャロン・モアレム著 矢野真千子訳 日本放送出版協会 2007年


 モアレム氏の書いた上記よりも以前の本です。エピジェネティクスについてはさらっとしか触れられていませんが、病気の遺伝子についてやはり面白く解説しています。病気の遺伝子はなぜ発現するのか、そのメカニズムについて書かれています。


 (福井県)小浜では江戸時代を通じて墓石を建てた人の半数強の人が墓石に苗字を刻んでいたのである。武家のほとんどいない湊町三国でも、墓石に刻まれた名前に関しては、武家の多い城下町小浜とほぼ変わらない状況であった。以上のことから公の場で苗字を名乗ることが許されていない人々も、墓石に苗字を刻むことは社会的に黙認されていたと見てよいだろう。この世では公の場で苗字を名乗れない人も、墓石に苗字を刻むことができるとしたら、彼らは喜んで墓石を建てたであろう。墓石が普及した要因の一つとして苗字の問題は大きかったのではなかろうか。


『墓石が語る江戸時代 大名・庶民の墓事情』

 関根 達人著 吉川弘文館 2018年


 類書が無い貴重な本です。弘前や道南などで膨大な墓石を悉皆調査し、それをデータベース化した著者には本当に頭が下がります。その成果から学ぶ点は非常に多くありました。


 イギリスでは男系のしかも直系の系譜をたどるという態度が主流であり続けてきた。そもそも家族というのがあいまいな言葉である。ごく近親のいわゆる核家族をあらわすのを一つの極とすれば、その対極をなすのが、祖先をさかのぼった系統全体である。そして系図学としては父系・母系双方をさかのぼることを意味する。系譜がすでに知られているということが貴族のほとんど定義といってよい。ヨーロッパでも大陸部においては、ある人物の玄祖父母(祖父母の祖父母)一六名とさらにその父母すなわち玄玄祖父母三二名がすべて貴族であることが貴族であることの必須条件であった。しかるに英国においてはそのように祖先をすべてたどるというような試みはごくまれであった。だが英国からの移民が多いアメリカ合衆国では、一九世紀以来家系遡行の幾多の試みがみられる。ワグナーによれば、英国においては系図研究が主として位階・紋章・財産の継承に端を発しているのに対して、合衆国では家族の関心と名誉が動機となり、そうした女系も含むすべての祖先をたどる試みを生んでいるのではないか、と考察している。また、冒頭で述べたごとく現在イギリスの公文書館はおびただしいアマチュア家族史家の訪問を受けており、そのなかの少なからぬ部分が合衆国からの訪問者のようである。


「近代イギリス農村家族の家系図ー歴史学と系図学の接点ー」高橋 基泰(歴史学研究会 『系図が語る世界史』 青木書店 2002年)340頁


 フランス貴族などは、その人数から見ると、日本の華族ではなく、士族に相当します。欧州では貴族の家系研究や子孫の活動が盛んです。日本でもそうなるといいですね。また欧州の公文書館には近年、アメリカやカナダなど移民国の人々がルーツ調査のために多数やって来ています。それに対応するため公文書館の職員は系図学をセミナーなどで学ぶ機会が多いと聞きました。日本でも将来的にはそういうふうになるかも知れません。


 翻って、日本の固有名詞学の現状はどうであろうか。本書の冒頭でも問題にしたように、一部を除いてその扱いは好事家の道楽以上の扱いを受けていない。ポーランドと同様日本においても、固有名詞学が学問的に認知される日が早期にやってくることを願いたい。


 『ポーランド人の姓名 -ポーランド固有名詞学研究序説ー』

  渡辺 克義著 西日本法規出版(株) 2005年


 本書は山口県立大学教授渡辺克義氏がポーランドの固有名詞学を初めて日本に紹介した著作です。ヨーロッパで固有名詞学(onomastics )が学問的な対象になったのは19世紀に入ってからとされ、とくにドイツ、フランス、スウェーデン、ノルウェーで発達し、ポーランドでは1925年ごろから研究論文が発表されるようになり、1939年には研究誌が刊行され、1955年からは専門誌『固有名詞学』が発刊されました。現在では学問として完全に定着しており、ポーランド科学アカデミー・ポーランド語研究所・固有名詞学部門を中心として、全国各地に固有名詞学研究センターが設置され、専門の研究者が活発に活動しています。

 固有名詞学が扱う研究対象は広く、人名、地名、動物名、植物名、建築の名称、学校名、船舶の名称などを含みますが、とくに黎明期から研究が盛んなのは人名学(anthroponymy

)と地名学(toponymy)です。日本では、どちらも学問としては認められず、苗字、地名、家紋、系図の研究はその大半が在野の愛好家によって行われているのが現状です。それでは、なかなか後進が育たず、体系的な研究もできません。丹羽先生はこの状況を憂い、ポーランドを訪れて固有名詞学者と会ってその学問的状況をつぶさに視察し、帰国後、自らの苗字研究を名称学(固有名詞学)と称するようになりました。そして、いつの日か、我が国の苗字(人名学)研究がヨーロッパの水準に追いつき、大学で教えられる固有名詞学に発展することを強く願っていたのです。

 本書の刊行後、もう10年以上もたちますが、残念ながら本書のような外国の固有名詞学の研究成果を発表した文献はほとんど出版されていません。もっと固有名詞学の情報が我が国に伝えられ、日本の苗字の研究者もそこから刺激を受けて学問化の道を模索するべきでしょう。



 家の歴史を知るということは、家の歴史をただすということであってみれば伝説・説話以上の正しさが要求されるのは当然であろう。つまりそれが歴史の正しさを求めることであるなら、終局的には歴史研究の方法に則すべきことが当然である。


 そのことによって「わが家の誇り」をあらためて持つということとなるのであれば、古い日本人的な伝統とも称すべき家名の尊重と祖先への敬慕をここに持つことによって自覚を発見し、それ故に人間形成への努力を忘れず、自己はもちろん一家一族の不断の向上心とも称すべき要素が生活の上に加わって来るのである。

 それが単に自己顕示の道具に供されてそれ以上には発展せず、そこにとどまるようでは余り意義を伴わず自己満足という狭小な世界に閉じこもるのみであろう。

 苗字を通じて祖先への誇りが欺瞞に満ち、偽りに過ぎないものであるというそうした危険から脱することは、その吟味が飽くまで学問的、実証的である必要がある。こう説明して来ると、苗字と家系の問題は、やはり歴史研究の本道に沿って調査研究の歩を進めて行くべきであるということとなり、それ以外には調べる術はないのである。


 『姓氏・家紋・花押』(読みなおす日本史)

  荻野 三七彦著 吉川弘文館 2014年 


 荻野先生は歴史考証家として有名な小和田哲男氏(静岡大学名誉教授)の大学院時代の恩師です。アカデミックな歴史研究者でありながら、注目されることの少ない系図や家紋に関心を持たれた貴重な存在でした。本書の中では歴史家の視線から家紋研究や系図研究の問題点、期待される研究手法が示されています。ライターや編集者がまとめた苗字・家紋の関連本とは明確に一線を画するレベルの高い本です。苗字や家紋に関心のある方には強く一読をお勧めします。


 昭和二十七年(一九五二)五月、早稲田大学教授洞富雄先生の論文が、日本歴史学会の機関誌『日本歴史』五〇号に掲載された。題名は「江戸時代の庶民は果たして苗字を持たなかったか」だった。

 当時"江戸時代の庶民は、苗字を持ってはいなかった"と、一般に信じられていた。専門の研究者たちですら、そう思っていた。そして文部省検定の日本史の教科書にも、「江戸時代の庶民は、苗字帯刀が禁じられていた」と、書かれていた。

 江戸時代の庶民は、苗字を持っていなかった。これが、研究者たちも含めた日本人全体の常識だった。

 この常識に対して、真っ向から挑戦したのが、洞論文だった。江戸時代の庶民も、苗字は持っていた。しかし名乗ることは、しなかったのだ、と主張されたのである。一種の爆弾論文だった。

 洞論文には、数多くの実例が、論拠として挙げられていた。検証は手堅く、しかも緻密で正確だった。なによりも、簡単には反論できないような気迫がこもっていた。

(中略)

 もう一歩というところまで、研究は深化したのである。まさに"もう一歩"だった。これら一連の研究には、重大な欠点があった。氏名(うじめい)と苗字とを、まったく同一視していたのである。

 大和時代から、すべての人が氏名を名乗っていた。氏上・氏人はもちろん、氏族に従属していたということで、一般庶民も氏名を名乗っていた。だから江戸時代の庶民も、もちろん氏名は持っていた。

 しかし名字に由来する苗字は、庶民のものではなかった。苗字は名字に由来し、名字は「名字ノ地」という領地に由来するのだから、名字を名乗るということは領主であるということだった。だから領地を持たない庶民には名字はない。当然のことながら、庶民が名字に由来する苗字を名乗ることは、なかったのである。

 つまり洞先生から始まる一連の研究は、みな苗字と氏名とを混合していたのである。


 『苗字と名前を知る事典』

  奥富 敬之著 東京堂出版 2007年


 奥富氏は日本医科大学の名誉教授で、日本中世史を専攻していた学者です。学者では珍しく、苗字や名前に関する本を何冊か著しています。本書は学術書ではなく、一般の読者を想定して分かりやすく書かれています。そこで洞論文に触れ、引用した箇所で洞氏らは古代から続く氏名と名字由来の苗字を混合して論を進めていると批判したのです。この奥富氏の説が正しいとすれば、洞氏やその後に続く研究者が発見した江戸時代の庶民の苗字と思われていたものは、苗字ではなく、大和時代から庶民の間で受け継がれた氏名ということになります。それは大変に興味深い問題提起ではありますが、奥富氏はそのことをさらりと書かれているだけのため、資料の裏付けに欠けるきらいがあります。また、江戸時代の庶民の苗字とされているものの多くは鎌倉時代に登場した名字と同一のものが極めて多く、大和時代の氏名に見えるものは、ほとんどないという素朴な疑問もあります。そのため、現時点では奥富氏の説にもろ手を挙げて賛同することはできませんが、古代の氏名が庶民の間で永続的に継承されていた可能性は確かにあり得ることです。

 また、この本の中で奥富氏は太田亮氏やそれを引き継いだ豊田武氏の平=平安京説を批判し、国学院大学名誉教授林陸朗氏の『日本中世政治社会の研究』に所収されている「桓武平氏の誕生」という論文を肯定的に紹介し、例外はあるものの一世(親王代)・二世(孫王)の賜姓は源朝臣、三世王の賜姓の場合は平朝臣という区別があったのではないかと説明したうえで、自説として「『平』姓賜与は、平安遷都の興奮があった時期だけの一過性の変則だった」という見解を述べています。この源平賜姓問題も大変に興味深い問題ですから、今後、後進の研究者によって、より深く研究されることを願わずにはいられません。


 いずれにしても古代には、全員が姓名か名字かを名乗っていたのである。

 ところが中世に入って源平合戦前後の頃、突然情況が一変した。一般庶民たちが、姓名や名字を名乗らなくなったのである。

 その原因を示すような史料は、まったく存在しない。しかし名前というものを軸として歴史を振り返ってみると、次のようにいえるかも知れない。

 古代は、天皇中心の時代だった。だから公家たちは姓名を重んじた。天皇から与えられた姓名は、天皇との関係を示していたからである。ところが摂関政治、院政と天皇自身は政治をとらない時期が続くと、しだいに天皇の権威は地に落ちていく。同時に姓名呼称もすたれていく。

 かわってはじまったのが、名字呼称である。新興の武士にとって名字を名乗るということは、自分が領地を持っている領主であるということを、他に誇示することでもあった。それは反面、領地を持っていない者には、名字を名乗る資格がないということにもなる。こうして所領を持たない庶民層が、名字の公称を遠慮し自粛するようになったのではないだろうか。法律などで禁じたわけではない。

(中略)

 一方で同時に「名字」という文字が、しだいに使われなくなる。かわって使われるようになるのは「苗字」である。

 苗字の公称を禁じた法令は皆無で、それでいて一般庶民は苗字公称を自粛し続けたのである。奇妙なことである。

 この間の事情について、豊田武は著者『苗字の歴史』で、


 結局、村内上層の農民が、いっぱん農民に苗字の私称を禁じたのであり…(中略)…幕府や藩の統制によるよりも、共同体内部の規制によることが多かった。


 と指摘している。

 農民たちが苗字を名乗らなくなったのは、一村単位でみれば自主規制だったが、その基礎に上層部から下層部に対しての圧迫があったと、豊田は考えたのである。


 『名字の歴史学』(角川選書362) 

  奥富 敬之著 角川書店 2004年


 奥富氏が『苗字と名前を知る事典』 よりも前に出した著作です。こちらはより入門書の色彩が濃く、姓名と名字、苗字の歴史を時間の流れにそって解説しています。引用した部分は中世になって庶民が古代の姓名を名乗らなくなった理由を指摘していますが、『苗字と名前を知る事典』では、これを踏まえたうえで、近世の苗字は古代の姓名の延長線上にあるものだととらえています。古代の姓名と苗字の関係、永続する家の意識がいつごろか下層農民の間で持たれるようになったかなど、中世から近世に至る間の名字と苗字の使用については、いまだに議論の余地が多くあります。引用の部分は論を展開する上での叩き台にはなりますが、いまだにこれで問題が解決したというわけではありません。古代の姓名と中世の名字、名字と近世の苗字の関係性はもっと深く掘り下げなければならないでしょう。


 話を近世にもどすと、庶民は苗字の公称を禁じられていたとはいえ、苗字を持っていなかったわけではない。すでに中世においても庶民の上層には苗字が広まっていた。領主が庶民に苗字を免許した場合も、苗字を与えたわけではなく、従来持っていた苗字の公称を許したことを意味している。

 苗字を免許された者以外は領主に提出する公的文書には苗字を記さないが、私的な文書や寺社の棟札、石碑などには苗字を使用している例は多くみられる。また人別帳も、領主に提出する帳簿には苗字は記されないものの、名主の控えには、村内の農民把握の便宜のために苗字を記したものも見出だせる。例えば、常陸国行方(なめかた)郡永山村の安政四年(一八五七)「正人別書上」には苗字免許の者以外は苗字の記載はないが、同年の「正人別書上控」と題された帳簿には、表1のごとく、一戸を除いて水呑(無高)にいたるまで各戸ごとに苗字が肩書きされている。前者は、代官所に提出した帳簿を記載どおりに写し控えたものであるのに対し、後者は名主が村内の農民を把握するための台帳として別個に作成されたがゆえに、苗字が書き込まれたのであろう。庶民においても、苗字は家名として継承されるとともに、分家に本家と同じ苗字が与えられ、同族の意識とされていた。それゆえ、同族の「同苗」とも称されていた(個々の家を特定する場合には、それぞれの家の当主名や屋号・屋敷名などで呼んでいた)。

(中略)

 明治5年(1872)の壬申戸籍を変えて届けた例も数例報告されている。その理由は、①本家と不和だった、②分家格を嫌った、③名門の苗字に変えた、④苗字はあったが、部落内では通称で一般に呼ばれていたので、それを苗字として届けた(例えば、坂の登り口に屋敷があり、坂の口の家と呼ばれていたので、「坂口」と苗字を変えた)、⑤戸籍登録の際に本家につづけて「同姓」と届け出たら、それが苗字になってしまった、などである。


 『近世農民と家・村・国家ー生活史・社会史の視座から』

  大藤 修著 吉川弘文館 1996年


 著者は東北大学名誉教授です。本書に所収されている論文はかなり著者が若いころのもので、東北大学に学位論文として提出されたものが核となっています。構成は大きく二部に分かれ、第一部は近世の国家・社会と家・氏・人生、第二部は近世農民と家・村・地域です。このうち引用した前半部分は第一部第三章第二節庶民における苗字と古代的姓氏の(二)苗字の私称と同苗からで、後半部分は同じく(三)村落の身分階層制と苗字からです。

 引用前半の近世における庶民の苗字使用の実態はさまざまな研究発表によって、いまでは定説となっていることですが、問題なのは、近世における庶民の苗字の遡源がどこなのかという点です。これが古代の姓名にまでさかのぼるのか、あるいは中世の名字の系譜をひくものなのか、はたまた一見すると中世の名字と似ていますが、発生由来は別で、単に何らかのゆかりのある地名から取られたものなのかが判然としません。この点が明確にならない限り、我が国の苗字の歴史が正しく解明されたとはいえませんが、いかんせんそれを推理する際に用いる史料が管見の知る限りでは見当たらないため、この謎を解き明かすことはほぼ不可能かも知れません。

 引用の後半は明治5年(1872)の壬申戸籍が作製されたさいに一族で苗字を異にした例があることを述べています。この事例は長野県におけるケースですが、ここであげられたような理由で一族間の苗字が不統一になったケースは全国的にかなり多かったと思われます。中世における同族間の名字の相違は支配する土地の違いに起因していますが、近世・近代における同族間の苗字の相違については、単に本家と分家を区別するためという理由だけが強調され、あらゆるケースがこれで片付けられているきらいがあります。それは実は正確ではなく、本当はここであげられている5つの動機のように多様であったことを知ることも苗字を理解するうえでは重要なことです。


 「名字」の「名」は領地をあらわすので、「名字」は「領地の地名」となる。中世には「出自名」を意味する「苗字」と書かれるようになり、江戸幕府は「苗字」を正式の表記とした。したがって、中世の「みょうじ」を「名字」とし、江戸期のそれを「苗字」と区別して用いる学者もいる。しかし、ここでは同じ性格の用語ではあっても区別をしないで用いることにしている。ちなみに現在用いられている苗字の種類は膨大で、丹羽基二『日本苗字大辞典』(芳文館、1996年)によると、29万1,531件もの名字が登録されている。

 すでに述べたように、格式のある「姓(かばね)」や勲功による「氏」も時代とともに本来の性質を失っていき、氏のことを姓といったり、氏の細別名称の苗字のことを姓というようになり、その際に「かばね」の読みは失われていった。源・平・藤・橘などは姓とも氏ともいい、北条・足利・織田・徳川は氏とともに苗字ともいうようになった。姓と氏、苗字には、以上のような歴史的な意味と違いがあったが、現在では姓名や氏名といえば苗字と名前のことをいい、戸籍にも苗字と名前が記載されているのが実情である。


 『戒名のはなし』

  藤井 正雄著 吉川弘文館 2006年


 本書は戒名について論じられた本です。ですから本来は戒名についての部分から引用させていただくのが礼儀だとは思いますが、名字と苗字の区別について分かりやすい説明がありましたので、その箇所を引用させていただきました。現在、マスコミでは名字を慣例として使い、法務省は氏を正式なものとしています。しかし、この解説からも分かる通り、中世以降、非地名型の「みょうじ」が増えるにつれて名字に代わって苗字が使われ出しました。そして本書にもある通り江戸時代になると苗字帯刀など、幕府は苗字を公文書でよく使いました。このような歴史的経過を踏まえると、現在の多様なルーツの「みょうじ」を包括的に表現する文字としては、古代・中世地名由来の名字ではなく近世に用いられた苗字のほうが適切だという判断から、私は苗字の表記を好んで使っています。


古代日本人の語源意識

  以上、、古代日本人の語源意識について次のことを述べた。

一、地名起源説や漢字表記から見て、古代日本人が語源に関心を寄せていたことがわかる。

一、記紀、風土記は地名を中心に固有名詞の語源に関心を寄せており、普通名詞の語源に関心を寄せた例は稀である。

一、語源解釈は、同音または類音の他の語と有縁化するという方法をとる。複合語の場合は構成要素に分析し、その一つまたは二つ以上の要素について同じ方法をとる。

一、語源を解釈するために引かれた語を品詞から見ると、名詞が最も多く、動詞・形容詞・形容動詞・副詞・感動詞にわたる。後二者の例は語源解釈というよりも語呂合わせに傾くと見られる。

一、語源を解釈するために引かれた語を意義分野から見ると、道具、地形・地名、動植物の名が多い。

一、語源を解釈するために引かれた語との語形を要素について比べると、同形のもの、類音形のもの、つながりを認めにくいものに広がっている。

一、そのうち類音の例を見ると、奈良時代に起きていた音韻変化と重なるものがあり、後世の「相通」「音便」などにつながるところもある。

一、古代日本人は、地名の本来の起源を知ろうとする一方で、統一国家の形成とともに天皇中心の地名起源説に改変している。


 『日本語の語源を学ぶ人のために』

  吉田 金彦編 世界思想社 2006年


 日本語の語源研究について一流の研究者が解説した本です。編者の吉田金彦先生は姫路獨協大学名誉教授で、語源研究の権威です。苗字の多くは地名から発祥しています。そのため苗字の由来を読み解くには、日本語の語源学の知識が不可欠なのです。かつて私が丹羽先生に「苗字の語源を探るにはどなたの本を読むとよいですか?」と訊ねたとき、本書の執筆者のお一人である大野晋(すすむ。学習院大学名誉教授)先生の『岩波古語辞典』をつねに引くように勧められました。以来、同辞典は私の座右の書となり、いつも手の届く本棚に置かれています。これから苗字を研究したいという人は、苗字をテーマにした概説書ばかりを読んでいても目覚ましい進歩はありません。それよりも語源学や地名学などのような近い学問領域の専門書を多く読んで、学際の知識を広げるように心がけたほうが良いでしょう。


 1字1音の文字の国の人が、複数の読みを持つ日本の漢字を学ぼうとすると、どう読んだらいいか悩むことがある。よく用いられる、学習済みの語であれば問題ないが、初めて見る人名や地名は、ほとんどお手上げである。もっとも、これに日本人でも、「吉川さん」が「キッかわ」か「よしかわ」か、「河野さん」が「こうの」か「かわの」か、など、読みに迷うことはよくある。「神野さん」の読み方を学習者に尋ねられた日本語教師が、「『かみの』…じゃなくて『かんの』か『こうの』かな? いや、『ジンの』かもしれない。そういえば『シンの』かも……?」などと、しどろもどろになって、学習者に「本当に日本人ですか?」と言われたなどという例も、ないわけではない。

 ここに、一つの疑問が起こってくる。漢字が日本で複数の訓を持つに至った事情は、理解できる。その漢字の意味が和語と1対1にならず、複数に当たる場合もあったに違いないだろうから。けれども、漢字はその故郷で一つの音しか持っていないはずである。なのに、日本ではなぜ複数の字音を持っているのだろうか。


『音声・音韻探求法 ー日本語音声へのいざないー』(シリーズ〈日本語探求法〉3) 

 湯沢 質幸・松崎 寛著 朝倉書店 2004年


 この疑問に対して著者は1、呉音・漢音・唐音など、渡来した時期や地域差によって、漢字そのものの中国音が複数あったため。2、中国の原音は同じであっても、受け入れた日本側の音が時代や地域によって異なっていたため。3、1と2が同時に起こった結果、複数の字音が生じた、と述べています。事例としては明が紹介され、「ミョウ」「メイ」「ミン」という字音のうち、「ミョウ」は飛鳥・大和時代(6~7世紀)に伝わった呉音、「メイ」は奈良・平安時代初期(8~9世紀)に伝わった漢音、そして「ミン」ははるかに遅く、鎌倉時代(13世紀)から近世末期(18世紀)にかけて伝えられた唐音とされています。これは1による字音の複数化です。そして、とくに「ミン」は平安時代中期(10世紀以降)に日本で撥音を表すカナの「ン」が登場したことによって定着したと考えられることから、これは2に当てはまります。そして、さらに中国側と日本側の事情で「ウ」が「イ」に変化した3の可能性も考えられるとあります。

 日本の苗字の特徴は、一つの文字表記で複数の読み方があることです。なぜ複数の読み方が生じたのかを理解するには、国語学や音韻の知識が不可欠なのです。苗字の勉強をしようとする人は、同じようなことしか書かれていない苗字の解説本ばかり読むのではなく、本書のような日本語の発音に関する入門書なども読まれることをお勧めします。



 これまで私は、室町時代を通じて庶民のレベルでもしだいに家名(苗字・屋号)が用いられるようになり、最終的には一六世紀の戦国期に家名の使用が一般化したと述べてきた。それはすなわち、ちょぅどその頃に貴族・武士はもちろんのこと、人口の圧倒的多数を占める庶民に至るまで、父より嫡男へと父系の線で先祖代々受け継がれる家が確立したという事実を意味する。

 だが、以上のような見解は、両側からの批判にさらされている。一方の側は中世のごく初期、時代で言うと鎌倉時代どころか平安時代後半の院政期頃(一一世紀~一二世紀)には、すでに封建社会を支える小農民の農業経営が家という形をとって成立していたとするもので、古代史の研究者や中世前期史の研究者に比較的多い見解だと言える。

 これに対しもう一方の論は、近世史の研究者の多くが支持する見解で、高校の日本史教科書でもお馴染みの、豊臣秀吉が行った「太閤検地」によって、はじめて封建社会が成立し、中世において奴隷的な境遇にあった貧しい下層民がまがりなりにも自分自身の経営を持つようになって、封建社会の小農民として自立を遂げたとみなす。そして、それから半世紀ほどたった一七世紀後半には、それらの小農民クラスの農業経営もようやく安定して、先祖代々続く家になったと考える。

 つまり、前者は「一六世紀などとんでもない。遅くとも一二世紀には庶民の家が確立していた」と主張し、後者は「一六世紀の戦国時代には一部の有力な上層住民は、確かに家を構えていたかもしれないが、彼らのまわりには、家と呼べるものなど持てるわけもない、不安定で奴隷的な下層民がたくさんいた」と主張するのである。


 『苗字と名前の歴史』

  坂田 聡著 吉川弘文館 2006年


 本書の著者坂田聡氏は中央大学教授で、中世史の研究家です。本書において、坂田氏は太田亮、豊田武、洞富雄、阿部武彦、加藤晃、義江明子氏などの先行研究を踏まえたうえで古代の氏、永続性のある家の発生、庶民の苗字使用、人名などについて深く考察されています。本書はアカデミックな研究者による現時点における苗字研究の到達点といってもいいでしょう。その意味で苗字を語るさいには、是非とも読まなければならない一冊となっています。

 現在、書店や図書館に行くと苗字関連の本がたくさんありますが、そのほとんどすべては学術的な苗字研究の成果が反映されていません。日本の苗字の本にはアマチュアが既存の大衆向けの趣味本的なものを焼き直して出しているものと、本書のように学術書として書かれているものがあり、その両者の間の溝は広がるばかりです。これから苗字を勉強しようという人は、似たり寄ったりの内容の趣味本的なものばかりではなく、本書のような学術書を多く読んだ方が考えが深まるでしょう。苗字が日本の歴史上の家と不可分の存在である限り、永続した家の成立時期と結びつかない苗字論はナンセンスです。

 引用した部分からも分かる通り坂田氏は苗字の大衆化と永続する家の発生時期を16世紀の戦国時代と推測しています。それに関しては古代史、中世史、近世史それぞれの立場の研究者から批判も出ていますが、坂田氏はそれを前向きに受け止めて、本書の中で自説を展開しています。このような前向きな議論こそが、我が国における苗字研究を着実に豊かにし、前進させることは間違いないでしょう。


  庶民レベルでも、中世前期には夫婦別氏で、中世後期になると、夫婦は同一の名字を用いることになるが、女性が名字を用いることはまれであった。近世になると「氏の名」と名字が混同され、中世前期以前の夫婦別氏の慣習を夫婦別名字と勘違いしていると指摘されている(坂田聡『苗字と名前の歴史』)

 ここで、夫婦別姓の議論の時によく例にあげられる日野富子の場合をみておこう。これも「氏の名」と名字(家の名)の混同がみられる。日野は富子の実家の名字であるので、富子が婚姻すれば名乗ることはないはずである。「富子」は成人名で公的な場合しか使用しない。公的な場合には「実家の氏の名+名前」であり、富子の場合は「藤原富子」が正式である。この場合も近世以来の「氏の名」と名字(家の名)の混同から、このように呼ばれ、それが定着してしまったのであろう。


 『戦国を生きた公家の妻たち』

  後藤みち子著 吉川弘文館 2009年


 著者の指摘は興味深いものです。たしかに氏の別と名字の別は混同されることが多く、公家の女性は中世、正式な場合は夫とは異なる実家の氏を称していましたが、通常は「婚家の名字(家の名)+女中(向名)」で呼ばれており、夫婦の名字は同じものでした。引用に見える日野富子のほかに、北条政子も同様でしょう。政子の実家北条氏は桓武平氏ですから、政子は正式には「平政子」と称し、夫の源頼朝とは異なる氏を名乗っていたはずです。しかし、夫婦別名字で北条政子と呼ばれていたかどうかは微妙で、通常は御台所と呼ばれていたはずです。この氏の別が名字の別と混合されて夫婦別姓の歴史的な解説に使われることがままありました。著者はその夫婦別氏と同名字の問題を整理し、中世の公家夫婦の墓地が別墓地(ある家の墓地の中で夫婦の墓が離れた場所に建てられる現象)から同墓地(同じ敷地内に建てられる現象)に変化してゆく過程を豊富な事例を取り上げて解説しています。


 家督相続のための養子の種類には、①婿養子、②順養子、③死後養子、④夫婦養子、⑤養女があった。①婿養子は、娘(姉妹、孫娘、養女の場合もあるが、ここでは説明を簡略にするため省略する)と結婚させるためのものである。養親子関係成立と同時に婿と養親の娘の間に夫婦関係が生じる。また、養子離縁はそのまま夫婦の離縁を意味した。②順養子は兄が弟を養子にするものである。③死後養子は家長の寡婦が養子をとるケースである。④夫婦養子は夫婦で養子となるものである。⑤養女は、男子ではなく、女子が養子となる場合を指す。また、竹内(利美)は近現代の慣行として「買養子」を指摘している。これは「富裕ではあるが、家格の低い家が由緒ある旧家の社会的地位を襲うために」行われた養子である。つまり、養子縁組に擬して家の「株」と地位を買い取るものであると竹内はいう。竹内は近現代の慣行としているが、近世にも存在する可能性があるので、筆者はこれを第六の類型「⑥買養子」として付け加えたい。


 『むらと家を守った江戸時代の人びとー人口減少地域の養子制度と百姓株式ー』

  戸石 七生著 (社)農山漁村文化協会 2017年


 著者は東大大学院の講師で、農業史を教えている方です。学術書ではありますが、大変に読みやすく、かつ考えさせられる点がいくつもありました。著者は本書において近世の家の存続に欠かせなかった養子縁組とそれによって継承された百姓株式について論じていますが、引用した養子の6類型については、我々が家系調査のために明治時代の除籍を手に入れると、頻繁にみられることです。現代では養子を入れてまで家を存続することが少なくなりましたが、近世・近代において家の存続は先祖祭祀の上でも非常に重要なことであり、これら6類型は日常的な出来事でした。

 家系調査のフィールドの大半は農村です。そこでかつて行われていた慣行を知っているのといないのとでは、明治の除籍から読み取れる情報量が圧倒的に違ってきます。家系に興味を持っている人は、調査のノウハウ本だけではなく、本書のような近世農村史を扱った専門的書もぜひ一読されることをお勧めします。そこで得られた知識は、先祖の暮らしぶりを想像する上で必ず役立ちます。また、本書には坂田氏との間で行われた永続する家の成立時期に関する議論について触れた箇所もあります。


 そもそも、じぶんの起源をたどるというのは、どういうことだろうか。わたしたちひとりひとりに、母親と父親がいる。そして4人の祖父母がおり、曽祖父母が8人、4世代前は16人、5世代前は32人、6世代前の先祖は64人である。1世代は、子供を出産したときの親の年齢を平均したものである。かりに1世代を25年とすれば、6世代前は、今から150年ほど前になる。現在を2017年とすれば、1867年。ちょうど明治維新のころだ。

(中略)

 世の中には、じぶんの家系を誇らしげに語る人がいる。かりに20世代前、およそ500年ほど前までさかのぼると、ひとりの人間の先祖の「延べ人数」は2の20乗であり、100万人を軽く超えてしまう。実際の先祖の数は、親戚同士の結婚による先祖の「重なり」があるために、もっとすくないが、それでも数千人がひとりの先祖となっているだろう。わたしたちひとりひとりが、それらすべての先祖と等しくつながっているのだ。誇らしげに語られるご先祖様は、そのなかのひとりにすぎない。遺伝的には、過去に生きていたたくさんの人々から少しずつDNAが受け継がれ、現在に生きているひとりの人間がいるのだ。


 『核DNA解析でたどる日本人の源流』

  斎藤 成也著 河出書房新社 2017年


 人類という巨視的な視点で見れば、たしかに一系統の家系を誇らしく語るという行為は愚かしい。我々を生み出したご先祖の数は著者の言う通り非常に多く、苗字は通常、男系一系統のものを名乗っているが、父、父、父の系統も、母、母、母の系統も、等しく私たちにDNAを遺していることに変わりはない。だが、複数系統のうち、ある特定の一系統に誇りを感じると、そのご先祖について詳しく知りたいと、調べたいと思ってしまう心情も自然なものであろう。

 それはよしとして、本書は日本人のルーツを探求した本である。最新の遺伝子学の研究成果を踏まえ、著者がヤポネシア人と呼ぶ我々の遠いご先祖がどこから来たのかを探っている。DNAに刻まれた歴史というのは本当にすごいものだ。それを利用すれば、東北人と出雲人と琉球人に近似性があることも根拠を示して証明できる。我々のご先祖が4度に渡って大陸などから渡来し、国内で人種の二重構造を形成したことも見えてくる。著者は理系の学者だが、DNAだけではなく言語や地名からも問題にアプローチしている点は大変に興味深い。これからますますこのような研究が発展し、我々の人種、言語のルーツ(源流)がはっきりと解き明かされる日を楽しみにしたい。