興味深い苗字の由来



興味深い苗字の由来

 有名人の苗字のなかから、興味深い苗字を取り上げて由来を紹介します。必ずしも珍姓とは限りません。また、由来(語源など)ではなく出自(系図)について解説することもあります。


金栗 かなくり・かなぐり

 Kanakuri Kanaguri 地名型

 全国順位 14,831位 全国人数 約380人

 NHKの大河ドラマ『いだてん〜東京オリムピック噺〜 』の主人公金栗四三(1891-1983)は熊本県玉名郡和水町(旧春富村)の出身。大正元年(1912)に開催されたストックホルムオリンピックのマラソン競技に日本人として初めて出場した、日本人オリンピック選手の第一号です。 

 金栗姓は現在、熊本県北部の和水町と隣接する福岡県みやま市、大牟田市、久留米市あたりに密集していますが、そのルーツの地はみやま市瀬高町小川字金栗ではないかと思われます。この地は中世、金栗名(かなくりみょう)と呼ばれ、福岡県柳川市大和町鷹ノ尾にに鎮座する鷹尾神社の神領でした。「鷹尾社祭礼記録写」の建保3年(1215)に金栗太郎、承久元年(1219)に金栗大宮司、貞応元年(1222)に金栗四郎の名前が見えます。これらの人物は金栗名に住んでいた鷹尾神社の神官であろうと思われます。その後、金栗という地名は記録から一時消えますが、江戸時代(1603-1867)になると再び金栗村が現れ、筑後国柳川藩(福岡県柳川市)立花氏の領地となりました。

 四三の生れた金栗家は、この金栗名の金栗氏の子孫ではないでしょうか。ちなみに大正8年(1919)の『熊本県富貴名鑑』に兄の實次が高額納税者として記載されていますので、村では裕福な家でした。

 次に金栗の語源ですが、これについてはいくつかの説が考えられます。「かな」が鉄か金を意味していることはまず異論がないところですが、「くり」は「刳(くる)」で「えぐる」ことなのか、全国的に「くり」は石の意味でよく使われるので、この場合もそうなのかが判然としません。前説であれば、掘り下げられた金山などの意味になるでしょうし、後説であれば鉄鉱石などが産出される場所ということになります。もうひとつ金凝神(かなこりのかみ・かなごりのかみ)の転訛という説も考えられるでしょうか。金凝神とは第2代綏靖天皇のことで、鉄の神様と考えられます。肥後国の一之宮である阿蘇神社(熊本県阿蘇市)に十二宮として祀られ、熊本県山鹿市や大分県日田市にも金凝神社が鎮座していることから、熊本周辺に金凝という地名があり、それが金栗に変化した可能性もあり得ます。みやま市瀬高町小川字金栗には弥生時代の環濠集落跡(金栗遺跡)もあり、その昔、鉄器の生産が行われ、金凝神が信仰されていたのかも知れません。

 金栗の読み方ですが、金栗名や金栗村は「かなくり」、金栗遺跡は連濁(二つの語が結び付いて複合語になるとき、後ろの語の最初の音が濁音になる現象)して「かなぐり」と言われています。四三は英文の手紙に「Shizo Kanakuri」と署名していますから、四三の苗字は「かなくり」です。しかし、東京では一般に苗字を連濁して読むことが多いため、「かなくり」とはなかなか読んでもらえず、「かなぐり」と呼ばれることのほうが多かったでしょう。


嘉納 かのう・かの

 Kano kano 地名・佳字・賜姓型

 全国順位 7,050位 全国人数 1,300人

 金栗四三が入学した東京高等師範学校(現在の筑波大学)の校長は嘉納治五郎でした。百以上もあった柔術の流派をまとめあげ、自らの創意を加えて柔道を創始し、講道館を開いた「日本柔道の父」です。

 そんな嘉納は現在の兵庫県神戸市東灘区御影町の出身。家は地元の名家で、酒造業や海運業で大成功した資産家でした。

 嘉納という苗字の由来は一般的には地名です。佐賀県神埼市千代田町に嘉納という地名があり、山口県周防大島町には嘉納山(かのうざん)があります。その語源は、佐賀県の嘉納は平安時代に勅使田の神崎荘が新たに開発した土地、すなわち加納田に由来し、加納の文字を佳字(縁起の良い文字)の嘉納に変えたものです。嘉納とは、「嘉(よみ)して納める」ことで、喜んで年貢を納めることに通じます。これは領主にとってはありがたいことであり、納める側の農民にとっても安堵できること、嬉しいことでした。山口県の嘉納山は観音山の転訛したものとも、山の頂きにあった城に住み、敵の襲撃で殺された嘉納姫の名前にちなむとも言われています。

 ただし、嘉納治五郎の家には独自の創姓伝説があります。それは南北朝の時代、御影沢の井の水で酒を造り、南朝の後醍醐天皇に献上したところ、ご嘉納(喜んで受け取ること )なされ、褒美として嘉納の姓を賜ったと言うものです。しかし、嘉納家は元々は材木屋と名乗る材木商で、酒造りを始めて「嘉納屋」と名乗り始めたのは江戸中期のことですから、この伝説とは矛盾するところがあります。とはいえ嘉納家は「菊正宗」「白鶴」と呼ばれる名酒を世に出し、灘を代表する蔵元になって嘉納財閥といわれ、名門灘中学校(現在の私立灘中学校・高等学校)の開校にも深く関わりました。


羽生 はにゅう・はぶ

 Hanyu Habu 地名型

 全国順位 1,651位 全国人数 約9,700人

 羽生という苗字は決して大姓ではあません。使用人数も1万人を少し切るほど。にもかかわらず二人も国民栄誉賞の受賞者を出しています。将棋で史上初めて七冠を達成した羽生善治さんとオリンピックのフィギュアスケートで2連覇を成し遂げた羽生結弦さんです。これは確率的にもすごいことです。

 羽生という苗字は読み方が多いことでも知られいます。「はにゅう」「はぶ」だけではなく、「はにふ」「はにう」など20通りはあるのではないかと言われています。もともとは地名から発祥した苗字でした。「はにゅう」とは粘土状の赤土を意味する「はに(埴)」に、それが生じる「ふ(生)」を付け足して出来た言葉で、この赤土をこねて埴輪(はにわ)を作り、古墳のまわりに輪状にならべた人々は土師(はにし)と呼ばれました。古代の葬礼や陵墓を管理していた豪族です。

 「はにゅう」さんは、このような赤土が採れる羽生(はにゅう)地名に住み着いて、それを苗字にしたわけです。茨城県や埼玉県に羽生(はにゅう)城という城があり、「はにゅう」という読み方は関東圏に多いことが分かっています。

 一方、「はぶ」という読み方ですが、これは「はにゅう」の古型である「にはふ」が転訛して「はぶ」に変わったという同源解釈もできますが、各地で崖や急な傾斜地のことを「はぶ」と言うことがありました。また海辺の集落もそう呼ばれることがありました。海辺の集落を「はぶ」というのは、山から傾斜した地形が海に達するからと思われ、やはり傾斜地という意味でしょう。

 「はにゅう」「はぶ」という苗字は、このように複数の語源を持つだけではなく、羽生のほかに土生、埴生、丹生など、さまざまな文字が当てられたため、それらの漢字からも新しい読みが発生し、表記、読み方ともに非常に多くのバリエーションを持つ苗字となりました。

 将棋の羽生七冠は埼玉県所沢市の出身ですが、ご先祖は鹿児島県の種子島に住んでいました。鹿児島には「はぶ」と「はにゅう」がどちらもいるため、羽生七冠の苗字の由来は「はにゅう」から転訛した可能性も考えられます。なお、七冠のご先祖とのつながりは不明ですが、薩摩藩主島津氏の重臣種子島氏の家臣に羽生家があり、『種子島家譜』を読むと、文禄・慶長の役に参加した羽生治兵衛能有や鹿児島城下に種子島氏の屋敷を建築するとき、普請奉行を勤めた羽生藤兵衛など数多くの羽生氏が登場します。羽生氏は種子島では名族なのです。

 フィギュアの羽生選手のほうは宮城県仙台市の出身ですが、ご先祖は茨城県など関東の人ではないでしょうか。中世の記録を見ると、現在の茨城県常総市羽生(はにゅう)にあった羽生城の城主として羽生吉定などが見えるからです。羽生選手はこのような豪族の子孫かも知れません。

 同じ表記であっても読み方が異なれば、由来も異なります。たった2文字、2~4音の苗字からいろいろな語源や歴史が垣間見えてくるから苗字は面白いのです。


菅生 すごう

 Sugo 地名型

 全国順位 2,885位 全国人数 約4,700人

 俳優の菅田将暉さんの菅田を「すだ」と読ませるのは珍しいなと思っていたら、本名は菅生(すごう)さんとのこと。

 菅生は地名発祥の苗字です。大阪府堺市に菅生神社があり、この神社は菅生氏の氏神(祖先を祀る社)とされ、菅原道真を祀っています。
 語源も菅原と同じ。笠や蓑の材料になる菅の生えている湿地や草地のことで、「すが」が「すご」に転訛し、その後ろに発生を意味する「生(う)」が付いた形です。
 ただし、『播磨国風土記』の菅生山の項には面白い伝説が紹介されています。第15代応神天皇が巡幸のとき井戸を掘ると、その井戸から湧き出る水がたいへん清く冷たいことから、天皇が「わが心すがすがし」と言ったことにちなむという説です。「すがすがし」から「すごう」。いい話ですね。
 菅生さんは千葉県と秋田県に多く住んでいます。

 一方、菅田さんは一般的に「すがた」「すげた」と読み、東京都や広島県に多く住んでいます。こちらも地名発祥で、スは州浜、カは場所を意味する言葉、タも場所を示す接尾辞で、海辺の遠浅の砂浜を「すがた」と言いました。「すげた」の場合は、菅原・菅生と同じくスゲの繁茂地と考えられますが、「すがた」から「すげた」読みに変化したり、あるいはその逆もあったでしょうから、どちらの可能性もあります。


手越 てごし

 Tegoshi  地名型

 全国順位 25,832位 全国人数 約140人

 NEWSの手越祐也さんの苗字「てごし」は珍しいですね。全国に約140人しかいません。大阪府や広島県に密集がみられ、由来は地名発祥です。
 静岡市駿河区に手越という地名があり、鎌倉時代から記録に登場します。語源は隣の向敷地から当地を通って丸子に向かう古道を「手児(てこ)の呼坂」と言い、これが短縮したものとも、安倍川を人の手で渡ったことにちなむともいわれています。手越という地名は茨城県などにもあり、いずれも川岸にあることから、語源としては後者の渡し船説のほうが有力です。
 駿河の戦国大名今川義元に仕えた手越松三郎は上記の地名から出た家といい、宮城県の伊達政宗の家臣にも手越内膳という武将がいたと『蒲生氏郷記』に見えます。

 手越姓は使用人数こそ少ないですが、歴史上に名を残した人物を何人も出している苗字です。 


桃田 ももた・ももだ

 Momota Momoda 地名型

 全国順位 6,219位 全国人数 約1,500人

 バトミントンの桃田賢斗選手の活躍で有名になった苗字ですが、桃田(ももた)選手の出身地は香川県三豊市三野町です。全国に桃田姓はまんべんなく分布していますが、とくに多いのが長崎県と大阪府。長崎県では佐世保市と大村市、平戸市に密集が見られます。大阪では和泉市に多いですね。

 桃田選手の出身地香川県では三野町よりも丸亀市に多いので、桃田選手の家も丸亀市から移転したのかも知れません。

 苗字の由来は地名発祥です。全国にある桃田、あるいは百田という地名から発祥しました。「ももた」の「もも」は植物の桃にちなむ場合もありますが、「もも」地名の多くは崖を意味する大和言葉の「まま」が転訛したものと考えられます。

 日本三大急流として有名な山形県の最上川も語源は「もも(ままの転訛で崖)」の「かみ(上流)」で、これが縮まって「もがみ」になり、最上の文字があてられたと考えられています。「ももた」の「もも」も「もがみ」の「も」も同じ語源ということです。その後の「た」は地名によく使われる場所を示す接尾語です。漢字は田を当てますが、必ずしも水田を意味するものではなく、場所、空間を指示した言葉です。

 桃田地名としては、熊本県玉名市にかつて桃田(ももだ)村があり、現在はそのあたりが桃田運動公園になっています。この地は菊池川沿いにあり、川の流れで川岸が削られた状態も「まま(崖)」と表現されました。

 「もも」には桃や百を当てました。どちらも縁起の良い佳字です。桃の木は中国から渡来した果樹ですが、その果実には魔を祓う霊力が宿っていると信じられてきました。桃太郎が超人的な強さで鬼を退治するのも、桃の霊力のなせるわざです。梅の花の次に咲く桃の花もあでやかで美しい姿です。百も当てましたが、これは数が多いことをあらわした美称です。地名では桃よりも百のほうが多用されました。

 桃田選手の強さの源には、桃の霊力があるのかも知れませんね。


新津 にいつ・にいづ

 Niitsu Niizu 地名型

 全国順位 2,918位 使用人数 約4,600人

 『秒速5センチメートル』や『君の名は。』など名作アニメーションを次々と発表している新海誠監督。新海とは珍しい苗字だな、と思ったらペンネームでした。本名は新津(にいつ)誠さん。実家は長野県南佐久郡小海町で明治から3代続く老舗の建築会社です。なお新津姓は上記以外にも複数の読み方があります。

 小海町の新津家については、『角川姓氏家系歴史人物大辞典』に記載があり、それによると第62代村上天皇(926-67)の流れをくむ村上源氏の子孫とのこと。村上義澄は最初、甲斐国村山(比定地不詳)に住んで村山と名乗り、次いで越後国新津(新潟市秋葉区新津)に移り住んで新津姓に改めました。その後、新津義澄は甲斐(山梨県)の戦国大名武田信玄に仕えました。

 この記述で疑問を感じるのは、出自が村上源氏だということです。村上源氏からは赤松氏のような名族が出てはいますが、その本拠地は西国であり、信濃国(長野県)に拠点があったという話を知りません。村上という苗字から村上源氏を連想したものではないでしょうか。北信の村上氏として有名な村上義清は第56代清和天皇(850-81)の流れをくむ清和源氏の子孫です。また越後の新津から出た新津氏も最初の氏族は第50代桓武天皇(737-806)の流れをくむ桓武平氏ですが、その滅亡後に出たのは清和源氏の系統です。村上・新津どちらも清和源氏とゆかりが深いことから、小海町の新津氏も実は清和源氏の出身ではないかと思われます。

 いずれにしても武田信玄に仕えていた新津義澄は天正10年(1582)、武田氏が織田信長によって滅ぼされると、武士の身分を捨てて隠棲し、現在の小海町で修験者となり、大宝院と号しました。以後、江戸時代(1603-1867)を通じて子孫は山伏として続きました。

 もう一つ、小海町には別系統の新津氏がいます。こちらは京の藤原一門の公家二条中納言守長(阿達太郎ともいう)の末裔と言い、守長が信濃国貫井(比定地不詳)に流れさてきて、小海町の新津氏と関りをもって新津姓を名乗るようになったと言われています。

 この系統は二条と言う先祖の称号が史実であれば第38代天智天皇の重臣藤原鎌足(614-69)の流れをくむ藤原系公家の名門に連なる家柄ということになりますが、二条中納言が別名を阿達太郎と名乗っていたという伝承が気になります。通常、位の高い公家はこのような武士のような氏名は称しませんから、あるいは藤原系の公家の流れを引く武士の阿達太郎守長が信濃に移り住んだという話が変化したのかも知れません。

 いずれにしても、この小海町にいる二系統の新津氏は前者が武田信玄の家来、後者は京の公家の子孫で、どちらも歴史ロマンを感じる家系です。新海監督のご実家は、このうちどちらかの系統ではないでしょうか。

 最後に、新津という地名の語源ですが、これは文字通り「新しく開かれた港(津)」のことです。

 
香取神宮
香取神宮

香取 かとり

 Katori 地名型

 全国順位 1,545位 使用人数 約10,500人

 香取さんといえば、香取慎吾さんが有名ですが、彼は横浜市の出身。地名の香取といえば千葉県香取市があり、ここには下総国の一之宮で、全国にある香取神社の総本社である香取神宮が鎮座しています。この香取神宮の祭神は経津主大神(ふつぬしのおおかみ)。別名を伊波比主命(いわいぬしのみこと)ともいいます。

 この神様は『日本書紀』によれば天孫降臨の先兵として、天照大神の命を受けて鹿島神(常陸国の一之宮鹿嶋神宮の祭神)の武甕雷男神(たけみかづちおのかみ)と共に出雲国へ下向し、大国主命に国譲りを迫り、それに反対した大国主の息子建御名方命(たけみなかたのみこと)を諏訪へ追放した武神とされています。藤原氏が氏神として崇敬したことでも知られています。

 香取という言葉の語源については諸説があります。香は神の代え字で、取は区画地、すなわち神様の鎮座地であるという解釈もありますが、神社のそばに香取海という水辺が広がっていることから、「か(欠)と(処)」は自然堤防や崖のことを指す言葉で、それに接尾語の「り」を付けたものではないでしょうか。

 ちなみに現在、香取姓を名乗る人は1万500人ほどいて、香取神宮のある千葉県に多く、同神宮の神職も香取家が世襲しています。


香椎 かしい

 Kashii 地名型

 全国順位 14,787位 使用人数 約380人

 香椎さんといえば、オダギリジョーさんと結婚した女優の香椎由宇(ゆう)さんが有名です。彼女は神奈川県綾瀬市の出身ですが、神社名としては福岡県福岡市東区香椎に鎮座する香椎宮があります。この宮は第14代仲哀天皇とその皇后である神宮皇后が筑紫に行幸して熊襲(くまそ)退治を話し合った時、皇后は神託によって新羅を征伐するように進言しましたが、天皇はそれに従わず、熊襲を攻撃して急死してしまいました。そのため皇后はこの地で改めて軍議を開いて新羅を討ったのです。その後、神功皇后の神託によって、天皇と皇后の霊廟を造営したのが香椎宮の始まりです。そのため通常の神社とは異なり、神社や神宮とは言わず香椎宮、あるいは香椎廟と呼ばれました。

 香椎という言葉の語源は、『大日本地名辞書』を編さんした吉田東伍が「樫の木の生えている場所」という説を唱えましたが、法制史学者の邨岡良弼は香取と同じく地形由来と解釈し、香椎宮のある糟屋(かすや)郡の「かす」と同じく「傾(かし)ぐ」ことで、やはり傾斜地や崖のことではないかと言いました。国土の約75%が山岳である我が国には「崖」や「傾斜地」を意味する言葉が大変に多く、それらは地名にもよく使われ、苗字にもなっていることから、この地形由来説のほうが有力です。

 ちなみに香椎さんは全国に約380人ほどしかいない希少姓で、香椎宮のある福岡県よりも現在は長崎県に多く住んでいます。

  

城島 じょうしま・じょうじま

 Joshima  Jojima 地名型

 全国順位 4,137位 使用人数 約2,900人

 TOKIO のリーダー城島茂 さんは「じょうしま」ですが、長崎県出身の野球選手・城島健司 さんは連濁して「じょうじま」と読みます。

 福岡県久留米市に城島町があります。この地が有力な発祥地です。語源は、川の合流点の州島に城があったことにちなむと推測されます。その城は城島城といいますが、城主だった城島氏は松田聖子 さんのルーツである藤原姓宇都宮氏族の蒲地氏と同族関係にあるといわれています。『鎮西要略』などの軍記本に登場する筑後の名族です。

 

内村 うちむら

 Uchimura 地名型 

 全国順位 909位 使用人数 約20,400人

 内村光良さんの内村という苗字は九州南部に多く、光良さんは熊本県の出身。体操競技で3つの金メダルを獲得した内村航平選手も九州出身です。
 この苗字は地名から発祥していますが、語源はいくつか考えられます。
 まず地形の「うち」とは何かの内側を意味し、山、川、海などが内陸に入り込んでいる場所のこと。そういう場所に村が成立すると、内村という地名が生まれました。
 また中世の私領である荘園の内部にある村も内村と呼ばれる可能性がありました。
 かつて肥後国にあった内村という村落は現在、熊本県熊本市北区植木町内として残っています。
 系図的には信濃国(長野県)にあった内村地名から内村氏が発祥しており、第56代清和天皇(850~81)の流れをくむ清和源氏小笠原氏族の子孫といいます。中世に編纂された系図本『尊卑分脈』に「小笠原長経ー長実(号内村)」と見える系統です。小笠原氏の代表家紋である三階菱や松皮菱を使っている内村さんは、この流れの子孫かも知れません。


椎名 しいな

 Shiina 地名型

 全国順位 675位 使用人数 約29,200人

 歌手の椎名林檎さんの椎名という苗字は関東に多く、とくに千葉県に密集しています。

 地名発祥の苗字です。

 下総国千葉郡(千葉市緑区椎名崎町)、同海上郡(旭市椎名内)の椎名地名が有名で、そこから第50代桓武天皇(737~806)の流れをくむ桓武平氏千葉氏族の子孫という椎名氏が生まれました。『千葉系図』に「上総介(千葉)常重ー胤光(椎名五郎)」と見える系統です。九曜紋を好んで使い、中世に一族は越中国(富山県)に移って新川郡の守護代となりましたが、元亀4(1573)年、上杉謙信に攻められて領地を追われました。

 椎名という言葉の語源は何でしょうか。

 椎の木に由来すると思われるかも知れませんが、その事例は極めて少ないのです。九州、とくに宮崎県には椎原、椎葉のような地名があり、いずれも険しい崖や浸食された谷に付けられています。一方、関東の椎名地名は堤防や砂地に付けられています。千葉市の椎名崎は村田川下流の台地にあり、旭市の椎名内は九十九里浜に面しています。上は「しひ(しふの連用形)+名(接尾辞・場所)」、下は「しな(階)」が長音化したものと推測されます。


松下 まつした

 Matsushita  地名型

 全国順位 149位 使用人数 約137,000人

 朝ドラ『スカーレット』 に出演した松下洸平 さんは東京出身。この松下という苗字は地名発祥で、全国の松下地名から生まれました。関東以西に広く分布していますが、とくに静岡県と鹿児島県に多くの方が住んでいます。
 静岡県の松下氏といえば、豊臣秀吉がまだ藤吉郎と名乗っていた青年時代、家来として召し抱えて可愛がったという今川家臣の松下加兵衛之綱が有名です。之綱は秀吉が天下人になると召出されました。之綱は藤吉郎の出世に驚きましたが、秀吉は「私が卑賎のころ、あなたから受けた恩を決して忘れていない」と感謝の言葉を述べると、之綱を重く用いて1万6000石の大名に取り立てました。之綱は嬉しさのあまり感涙したともいわれています。
 昭和ではパナソニックを創業して「経営の神様」といわれた松下幸之助が有名です。和歌山県海草郡和佐村(現、和歌山市禰宜)の出身で、大きな松の木の下に屋敷があったことから松下姓を名乗ったといわれています。4歳の頃、父親が米相場に手を出して失敗し、先祖伝来の家屋敷を取られて村を去りました。まさに裸一貫からのいばらの道を乗り越えて、パナソニックのような大企業を創業した今太閤、立志伝中の人物です。

 松下の語源は、一般的には「松の木の下(ほとり)」「松林のほとり」のことですが、全国の松下地名を調べてみると、それ以外の語源もあります。
 たとえば町やある区画のことを昔は「まち」と言いましたが、この「まち」が転じて「まつ」になり、縁起の良い松の漢字が当てられることもありました。
 町田よりも松田が圧倒的に多く、町本という地名・苗字ともにほとんどいないのに対して松本という地名・苗字は大変に多いことを考えると、「まち」地名の大半は佳字の「まつ」に転訛し、松の文字が当てられたことが分かります。

 松がなぜ縁起の良い木かと言うと、まずは年間を通じて葉が落ちない常緑樹であることが、生命力の強さと家の繁栄を象徴しているとされました。また、「まつ」は神様の降臨を「待つ」に通じるとされ、伝説でも天女は決まって松の木に舞い降りてきます。このような理由から、松は松竹梅の筆頭に数えられたのです。

 面白い「まつ」地名の語源としては、福島県などのマタギが使う「まつ」があります。この「まつ」はマタギがじっと身を潜めて熊を狙い撃ちにする場所、隠れて「待って」いる場所のことを言います。東北の山間部の「まつ」地名の中には、これに由来するものもあるでしょう。

 最後に下は場所や低地を意味し、地名・苗字では本と相通じて用いられますから、松下さんと松本さんは兄弟のような関係ということになります。古来から下が本と共通して使われてきたかは、元大阪市長の橋下徹氏の橋下が「はしもと」と読むことからも分かります。古くは「〇下」と書いて「〇もと」と読む地名が全国にありました。